34話 セーブルアンテロープ
「ウヴァーアッ」
セーブルアンテロープが、低い雄叫びを上げ続ける
そんな獲物の身体を、4頭のメスライオンが噛み、沼から引き離していった。
すでに獲物は、ナイルワニに足を噛まれて、力比べで体力も消耗していた。
これで逃げられるようでは、ライオンは野生下で暮らしていけないだろう。
――ライオンは数百万年間、狩りをして生きてきたからなぁ。
ライオンの狩猟能力は、けっして低くない。
ワニに足を噛まれたウシ科の草食動物など、狩るのは余裕のはずである。
『あれは、流石に逃げられないだろうな』
『そうだね。今日はごちそうだね』
雄叫びで顔を上げたセーブルアンテロープは、メスライオンに喉を噛まれた。
息を止めて意識を奪うという、ライオンの典型的な狩りの手法だ。
獲物の意識があるうちに食べるハイエナより、優しい狩りだろう。
もちろんセーブルアンテロープは、ライオンに意識を落としてほしくて叫んだわけではないだろうが。
『雄叫びを上げたのは、怯ませるか、仲間を呼んで助けてもらう目的かな』
『そうかもね。でも仲間は、戻って来ないよ』
『それはそうだろう。俺達ライオンと、ワニに同時に襲われたんだ。捕まったのが子供だったら、親が来るかもしれないけど』
俺がセーブルアンテロープだった場合、捕まったのが子供であれば迷う。
だが、同じ群れに所属している大人が捕まったら、自己責任だと思う。
捕まった個体を一々助けていると、自分の命が早々に尽きる。
案の定、セーブルアンテロープの仲間は助けに来なかった。
そして代わりに来たのは、オスライオンだった。
「ガオオッ、ウオオオッ」
駆け寄ってきたのは、俺とリオの父達2頭のオスライオンだった。
――あんたらかいっ!
どうやら獲物を狩れたと察して、食事に来たようである。
オスライオンの雄叫びを聞いたセーブルアンテロープは、ムンクの叫びのような表情を浮かべた。
そして気絶するように、意識を落としていったのである。
そのほうが相手にとっては、幸せなのかもしれない。
これにて群れの狩りは、成功である。
『あー、無くなっちゃう』
『まあ、狩った獲物は大きいから』
諦観の表情を浮かべたリオに対して、俺は微妙な慰めの言葉を掛けた。
メスライオン達が捕まえたセーブルアンテロープは、対岸の群れの中で、平均的な大きさだった。
すると体重は、220キログラムほどになる。
それくらいあれば、流石に一口も食べられないということはないだろう。
ないと願いたい。
メスライオン達の間に割って入った父達は、獲物にカブリと噛み付いた。
そして一番弱い下腹部に牙を立てて、ガジガジと皮を裂いていく。
草食動物の胃や腸を食べるのは、肉食動物のライオンが、消化できない植物から必須ビタミンを摂取するために必要な行為だ。
一番良いところを食べられた俺とリオは、ガッカリとした表情を浮かべた。
『やっぱり、そこを食べちゃうよね』
『まあ父達は、ハイエナとか、ほかのオスライオンを追い払っているから』
不満そうなリオの身体を押した俺は、獲物を食べる群れの中に入っていった。
獲物の意識が無くなり、皮膚も裂けた以上、俺達も食事に加わるべきだ。
『ミーナ、行くぞ』
『はーい』
オス2頭、メス4頭、2歳の姉、1歳の姉3頭、俺達4兄弟姉妹。
合計14頭が、一頭のセーブルアンテロープに四方から群がっていく。
俺達は、オスライオンの真横を避けて、メスライオン達の間に潜り込んだ。
食事の際、空腹のオスライオンは、群れのライオンを追い払うことがある。
メスライオンが狩った獲物なのに追い払うのだから、なんとも酷い話だ。
そこに幼獣が入ろうものなら、ライオンパンチで、致命傷を負いかねない。
幸い現在の空腹度は、そこまで深刻ではなかったようで、父達は周囲のメスライオンを追い払うことはなかった。
食事が始まった後、ライオンの群れは、黙々と肉を貪っていった。
14頭で食べれば、体重220キログラムの草食動物など、すぐに無くなる。
――確かライオンって、体重の4分の1まで、食い溜め出来るんだっけ。
オスが体重180キログラムの場合、45キログラムまで食い溜め出来る。
メスが体重140キログラムの場合、35キログラムまで食い溜め出来る。
本当にそこまで食べられるのかは、俺も知らない。
だがオス3頭で、大きなイボイノシシを食べ尽くす映像は見たことがある。
動物園のライオンも、10キログラムの鹿肉を余裕で食べ尽くしていた。
ライオンの1日の食事量とは、必要量であり、限界量ではないだろう。
『この勢いだと、すぐに骨と皮だけになりそうだな』
満腹になったライオンは、しばらく寝転がって動かなくなる。
草食動物が近くに居ても、狩ろうとしなくなるのだ。
ここで食いっぱぐれた場合、俺達は、数日くらい食事抜きになってしまう。
『ミーナもちゃんと食べろよ。きっと残らないぞ』
「ガウッ」
俺の妹から、実に頼もしい返事があった。
リオもしっかりと食べており、ついでにギーアも食べている。
俺に対して頻回に挑んで、常に下克上を狙うギーアは、面倒だと思っている。
だがリオの実弟なので、メス争いで競合しないことから、独立時の頭数にはカウントしている。
連れて行く場合、普通のオスライオンくらいに成長してくれていたほうが良い。
幸いにギーアは大の肉好きで、周りを押し退けてでも食べる気質があるので、俺が心配しなくても大丈夫そうではあるが。
喉を噛んでいたメスも食事に入り、俺の群れには、食いっぱぐれは居なかった。
――マグロ、甘エビ、イカ、ホタテ、ウニ、イクラの海鮮丼。
それが今世における、生肉に対する俺の味覚だ。
味覚とは、口腔中の舌などにある味覚受容体細胞から脳に伝わる反応だ。
食事が美味しいと思わなければ、動物は食物を摂取せず、生きていけない。
生きていくために必要な食事は、ライオン的には美味いと感じるはずである。
実際に狩りたての獲物は、鮮度が抜群で、とても美味だった。
しばらく食べ続けていると、獲物の身体は、半ば以上が骨と化していた。
「ガオオオッ」
興奮している父が、セーブルアンテロープの頭を噛み、引き摺り始めた。
それをリオの父が離さずに引っ張り、獲物の身体が半分に千切れる。
その辺りで潮時と思った俺は、食べていた獲物から離れた。
メスライオンや子ライオンも離れていき、俺達の食事は終了した。
肉を食べたメスライオン達は、沼の近くに生えている木の下に、移動を始めた。
俺達ライオンは、木の下を好む。
日差しを遮る木陰になって、雨宿りも出来るからだ。
メスライオン達が向かった木の下が、俺達が滞在する場所になりそうだった。
なお背後の残骸は、周囲に集まったハゲワシが群がって、処理を始めている。
腹が満たされたライオンは、小さな肉片を漁るハゲワシには、無関心だ。
『血肉の臭いを消してくれるから、ハゲワシ達にも食べさせるのかな』
『どういうこと?』
『血の臭いがしたら、ほかの肉食動物が寄ってくるし、草食動物も近寄らない。だからハゲワシ達にも、食べさせるのかと思った』
俺達が休む場所に、ほかの肉食動物が寄って来ないことは、メリットである。
それに血の臭いが消えて草食動物が近寄ってくれば、次の食事にもありつける。
『うーん、そこまで考えているかなぁ』
『まあ実際には、本能でやっているだけかもしれない』
木の下に着いた大人達は、そこでゴロゴロと転がり始めた。
その姿を見て、俺は高度な計算だという仮説を、取り下げた。


























