31話 群れの移動
青く澄み渡った空が、どこまでも広がっていた。
俺が転生した異世界は、未だ大気汚染とは無縁なのだ。
空気が澄んでいるおかげで、遥か遠くの景色が見える。
そんな綺麗な空の下、遥か南に、大山脈が聳え立っていた。
どれくらい高いのかは分からないが、山頂は白くて、雪も積もっている。
――アフリカのキリマンジャロも、山頂には雪が積もっていたな。
キリマンジャロは、アフリカのタンザニアに聳え立つ、標高5895メートルの成層火山だ。
地下からマグマが噴火し、冷えて固まって、高い山が形成された。
19世紀、山頂が白い山がある話を聞いたドイツ人宣教師達が探索して発見に至ったが、当初は地質学者から「熱帯に雪があるわけがない」と、否定された。
だが実際には、熱帯でも山頂には雪が積もった。
前世のキリマンジャロに比肩しそうな、高くて山頂が白い山からは、降り注いだ雨がいくつもの川となって、北の内海まで流れている。
そんな川の一部には、俺が生まれたライオンの群れのナワバリも重なる。
『水、うめぇわ』
飲んでいるのは川の水だが、俺はライオンだ。
日本のようには木々が生えていないので、土壌に微生物が多いわけではなく、汚れた水を浄化する作用は少ない。
だが飲んでいるのは、山脈から流れる川の水で、上流なので綺麗なほうだ。
この水がお気に入りの俺は、空間収納の中にも、結構な量の水を蓄えている。
『それは良かったね』
俺の隣で水を飲む又従兄妹のリオから、素っ気ない反応が返ってきた。
この態度は俺に冷たいのではなく、水質に興味が無いからだろう。
猫は、泥水だって平気で飲める。
日本の家猫が水の選り好みをするのは、水道水の塩素や、洗剤で洗った皿を嫌うからだと聞いた。
俺達が飲んでいる川の水には、もちろん使われていない。
ちなみに俺達は、猫ではなくてネコ科動物のライオンだが、飲料水に関しては似たようなものだろう。
『それよりも、どうして移動しているのかな』
『うーん、分からん』
一昨日までは、ナワバリの中心地に居た。
中心地は俺達が生まれた場所で、スイギュウが闊歩し、獲物が確実に居た。
だが大人のメスライオン6頭のうち4頭が移動を始めて、姉4頭、俺とリオ、弟妹のミーナとギーアが付き従っている。
群れを支配する2頭のオスライオンは、一緒に来ていない。
だが狩りをメスライオンに任せており、腹が減ったら寄って来るのだろう。
我が父ながら、とても良いご身分である。
元の場所に残ったのは、出産間際、ないし出産直後のメスライオン2頭だけだ。
ライオンは、群れから離れて出産する。
合流するのは、生まれた子供が4週間から8週間ほど経った頃だ。
『弟と妹が生まれるから、俺達を引き離そうとしているのかな』
『どうして引き離す必要があるの?』
『まずは兄姉の子ライオンが、力加減を間違えることだ。つまり俺達のことだな』
現在の俺達は、生後半年になったところだ。
平均的なライオンの体重は25キログラムで、大型犬にギリギリ届く。
それに対して、生まれたばかりのライオンは、体重1キログラム。
生後1ヵ月でも4キログラムで、人間の新生児ほどしかない。
人間の親は、大型犬の目の前に新生児を置いて、仕事に出かけるだろうか。
『俺達が力加減を間違えると、大怪我や、死んでしまうこともある』
『えー、乱暴なことは、しないのに』
リオが残念そうに、あるいは不満そうに訴えた。
確かにリオは賢くて、生まれたばかりのライオンに乱暴をしそうには思えない。
あまりに賢すぎて、俺はリオも転生者ではないかと疑っている。
但し、今世では賢いリオをパートナーに考えており、前世の話は避けている。
もしも母親世代だったりしたら、俺はリオをパートナーにできないからだ。
前世が学生であれば非常に嬉しいので、ぜひ自発的に話してほしいが。
『俺やリオは大丈夫でも、ギーアは危ないだろう』
『それは確かに。弟と妹が危ないかも』
リオの弟であるギーアは、同時期に生まれた俺に対して、頻回に勝負を挑む。
狐やハイエナのように群れで暮らす哺乳類は、小さい頃に力比べをする。
大人になってから戦うと大怪我をするので、小さいうちに兄弟間の序列を決めておくのだと、聞いたことがある。
狩猟やオス同士の争いの練習、序列決めなどで、力比べは大切だ。
ギーアは、そういったライオンの本能に従って行動しているのだろう。
『ギーアが俺と競うことについては、健全な成長だと思っている』
俺の場合は、毎回きっちりとギーアを負かしている。
序列を明確化する行為なので、わざと負けたりはしない。
幸い俺は、C+というライオンでも高い身体能力、空間収納を使った肉の安定摂食、心肺持久力を高める運動により、アドバンテージを保てている。
空間収納に入れているスイギュウの肉は、リオとミーナにも提供している。
一頭だけ空間収納の肉を得られないギーアの力は、それほど優位ではない。
――俺を何度も倒そうとするからだ。
俺に挑み続けるギーアに対しては、マウントを執り続けなければならない。
さもなくば独立後、ギーアが自分をリーダーだと勘違いして、勝手な行動で群れを危険に晒す恐れがある。
『あたしにも挑んできて、面倒』
『オスライオンの本能が強いんだろうな』
『食い意地も張っているよね』
『父達や兄達と同じだから、典型的なオスライオンなのかもしれない』
ギーアは血気盛んで、序列を上げる意識も強い性格になった。
そんなギーアがリオに挑めば、俺が割って入る。
またギーアがミーナに挑めば、俺とリオが割って入っている。
俺がリオへの攻撃を妨害する目的は、ギーアが上位になるのを阻止することだ。
リオのほうが賢いので、行動の決定権はリオに持たせたい。
ミーナに関しては、ギーアを調子に乗らせないことが目的だ。
ギーアがオスとして調子に乗っていくと、群れからの独立時期が早まる。
兄のエムイーが独立したのも、オスとして調子に乗ったのが切っ掛けだ。
ライオンの子供は、力比べをしながら狩りの練習をするが、リオとミーナに関しては、お互いや俺が相手になっている。
ミーナは、ギーアから離れて、俺とリオの傍に居ることが多くなった。
俺が独立する時は、3頭とも連れて行くことを考えており、ミーナはギーアのパートナーにしたいと思っている。
人間の場合は余計なお世話かもしれないが、ライオンの場合は用意しておかないと、繁殖機会を求めて群れから飛び出したりする。
もっともギーアはライオンの習性が強すぎて、なかなか思い通りには進んでいない。
――唯一成功したのは、年上好きの趣味だな。
2歳年上の兄達がギーアを突き飛ばしたとき、俺は2歳年上のビスタに、ギーアを甘やかすように誘導してみた。
するとビスタはギーアを甘やかして、ギーアもビスタに懐いた。
俺は同い年から年下が好きなので、ギーアと競合しない。
その点だけは、大成功である。
『ギーアが生まれたばかりの弟妹に乱暴をしたら、怪我をして困るね』
『そういうことだ。だから今は、群れで移動しているのかもしれないな』
幼い弟妹をギーアに引き合わせた場合、ギーアは上下関係を示すと予見される。
俺は前世で、ライオンの兄弟が力比べをして、小さい側が腹を見せて転がっている映像を何度か見たことがある。
流石に俺も、ギーアが弟妹よりも上だと示すことについては、妨害する意志を持たない。
ギーアが上であることは事実で、妨害しても無意味だと思うからだ。
だが俺は、人間が家で飼っている大型犬が、飼い主の子供である乳児を殺したニュースを、何度も見た記憶がある。
不幸な結末に至ることは、充分に予見できる。
あえて厳しいことを言うが、そんな親の血筋が自然淘汰されていった結果が、現在のライオンのライフスタイルになっているのだろう。
『後は、ミルクの奪い合いかな。獲物を狩れなくて餓えた時には、子供ならミルクを飲むだろう。同じ誕生日の兄弟姉妹なら張り合えても、半年差は無理だ』
『あー、あるかも』
俺とリオは、兄弟姉妹でミルクの争奪戦をした。
俺達は争奪戦に勝ったが、メスライオンの乳首は4つある。
新生児は、飲む量に限界があるので、ほかの兄弟姉妹もミルクにありつけた。
だが半年で体重25キログラムの個体と、生まれた直後で体重1キログラムの個体だと、勝負は目に見えている。
群れに数ヵ月ほど早く生まれた兄姉がいれば、餓えた時にミルクの奪い合いになって、新生児は負けてミルクを飲めなくなってしまう。
その場合、新生児は死んでしまう。
そのためライオンは、子ライオンと、新生児のライオンとは、一緒にしない。
『というわけで俺達は、新生児と引き離されていると見た』
『とても納得したかも』
『それは何よりだ』
水分を補給した俺達は、少し先に進んでいた群れに向かった。
俺達の後ろからは、ずっと傍に居たミーナも付いて来る。
群れが何処に行くのか分からないが、美味い肉を食べたいものである。
そんな風に思っていると、不意に新生児を合流させない別の理由に思い至った。
『もう一つ思い付いた。生後2ヵ月未満だと、群れの移動に付いていけないかもしれない』
『あー、それもあるかもね』
人間の新生児だと母親が運べるが、ライオンの新生児だとそうはいかない。
それに移動すると、新生児が肉食獣や猛禽類に見つかるリスクも上がる。
それに思い至らなかった俺は、前世の感覚を引き摺っているのだろう。
同様にリオも、やはり前世があって人間だったのかもしれない。
そんな風に思いながら、俺達はゆっくり進んでいた母ライオンに追い付いた。


























