第99話 ノンノ
「駄目よ、姫。濡れた儘じゃない。その子も。代わりの衣を持って来るから、そこで待って居て」
ピリカとヌプリは母屋の手前の庇に留め置かれた。
この当時の庶民は竪穴住居で暮らして居たが、猿は、和気の部隊の弓隊長として、倭風の、庇付き掘立柱建物の館を与えられて居た。
「姫はこれに着替えて。その子はもう少し乾くまでここで待つしか無いわね」
弥生の爽やかな日差しの中、ヌプリはこの言葉を解したかの様に、何度も身を震わし、そう時を待たずに、身体を乾かした。
ヌプリの臭いは幾分和らぎ、猿に許され、ヌプリは暫く部屋の中で暮らす事となった。
夜、ピリカはヌプリと共に寝所に入り、眠りに付いた。
ピリカは夢を観た。
「のう、ヌプリ、御前ぇ、母ちゃんを追わんくって良いんか」
ヌプリは、悲し気な鳴き声を小さく漏らし、母と巌がもう一頭の子狼を連れて森の中へと消えて行くのを、唯、唯、眼で追うだけで有った。
「どうして御前だけ」
ピリカはヌプリを強く抱き締めた。
その刹那、ピリカは後頭部を鉄槌で殴られた様な、強い衝撃を味わった。
「うぉおおおお」
ピリカはヌプリを胸に抱えた儘、その場に蹲った。
「痛てぇ。何なんじゃ、こりゃあ」
ピリカは、ヌプリから手を放すと、両の手で後頭部を抱えて、仰向けと成り、背を弓の様に反らせた後、苦悶の表情を浮かべてその儘の姿で動かなくなった。
ヌプリはピリカに近付き、心配そうにピリカの頬を舐めた。
すると、ピリカの頭痛は幾分和らいだが、次は、眼の奥に拍動性の痛みが生じた。
ピリカは両眼を覆った。
痛みは次第に強く成り、拍動に応じて痛みの波が大きく成ると、それに合わせて、閉じた視野を閃光が包んだ。
「うぁああ」
光の眩しさに一瞬失った視界が回復すると、眼の前に広がる光景は、大野の山とは異なって居た。
「おーい。ヌプリー」
眼の前に居た筈のヌプリが見当たらなかった。
「ここは何処じゃ」
ピリカは周りを見渡した。
「それにしても、先のは何だったんじゃ」
何事も無かったかの様に痛みは失せて居た。
「ここは、吾の」
ピリカは再度周囲を確認した。
「ウタリモシリじゃねぇか」
ピリカが、何度も、何度も、故郷の景色を確認して居ると、遠くに小さな人影を見つけた。
「おーい」
ピリカは人影に向かって声を掛けた。
人影の足元は、右へ左へと、覚束無く、酔って居るかの様で有った。
人影はピリカの方へと近付き、その顔が確認出来る程の距離に至ると、ピリカは、
「親父」
と叫んだ。
人影は、ピリカの父、ルイで有った。
ルイは何も返さなかった。
「親父。おーい。親父。生きて居たのか」
ピリカは、一瞬、驚いたが、直ぐに、喜びが沸き上がった。
ルイはピリカに気が付いて居ない様子で、蹌踉めき乍らピリカへと向かって来る。
「おい、親父。酔って居るのか」
ルイの顔は真赤で有った。
「おい、親父。大丈夫か」
ピリカはルイへと駆けた。
「親父。吾じゃ。ピリカじゃ」
ルイは顔を上げ、ピリカの方へと眼を向けて進んだ。が、その歩みは危うく、突んのめった。
ピリカはルイを支えようと、咄嗟に両手を差し出した。
ルイの身体はピリカの両腕を擦り抜けて、その儘、身体も通り過ぎた。
ルイは酔っても戦士。脚を踏ん張り、転倒を避け、前へと踏み出した。
ピリカは振り返り、呆然と成った。
「親父」
ピリカはルイを追い掛け、右手を伸ばして、ルイの肩を掴もうとした。が、これも擦り抜けた。
「何なんだ。親父。おい、親父。聞こえてんのか」
ピリカは大声を上げた。
ルイは振り返る事無く、千鳥足で進んだ。
「待ってくれよ」
ピリカはルイを追った。
ルイは何度も転びそうに成り乍ら、館へと向かった。
ピリカはその都度、ルイに手を差し伸べたが、全てその手を擦り抜けた。
館に着いたルイが、
「ノンノ。おーい、ノンノ。今帰ったぞ」
と、声を掛けると、
「あら、御顔。真赤じゃない。如何したの。珍しい。貴方がこんなに酔うなんて」
ルイの妻、ノンノが迎えた。
「酔うた。今宵の酒は甚く効いてのう」
「そうじゃ。親父は酔い過ぎじゃ。母者。母者は親父と共にイルッカの所へ行ったんじゃ無かったのか」
ルイに連れて館の中に入ったピリカの問いに、ルイも、ノンノも応じなかった。
「なあ、ノンノ。ピリカと、イラマンテは」
「吾はここじゃ」
「もう寝て居るわよ」
「ちょっと、顔でも」
「駄目よ。折角寝たんだから。ピリカは貴方が帰って来ると遊びたがって寝ないんだから、絶対に起こしちゃ駄目よ」
「だから、吾はここじゃ」
ピリカが張った声は、空を擦り抜けた。
ピリカは、赤顔で眠るルイを夜通し見守り、朝を迎えた。
日が昇り、外で鳥の囀りが激しくなると、ルイは、突如、苦しみだした。
「おい、親父。如何した。大丈夫か」
ピリカはルイの肩を掴もうとしたが、やはり擦り抜ける。
「母者。おい、母者」
ノンノは目を覚まさない。
すると、
「うぉおおおおおおお」
と、ルイが悶えた。
ノンノはこの呻き声に驚いて、目を覚ました。
「貴方、如何したの」
十年前と同じく、ルイは死んだ。
程なくして、館には、イルッカと、イルッカに仕える戦士達が入って来た。戦士達は、ピリカがシヌエを施された時に、ピリカを押さえ付けた者達で有った。
「御前等、許さねぇぞ」
ピリカは、戦士の一人に拳を振るったが、拳は戦士を擦り抜け、空を突いた。
「ノンノよ。イラマンテを連れて吾が館へ行くぞ」
「やはりピリカは」
ノンノはイルッカに、確認する様に尋ねた。
「そうじゃ。ピリカは、ルイの作った家無き女達の館へ送る。ルイの血を色濃く受け継ぐピリカには、相応しい館じゃ」
イルッカは、ノンノの腰に手を回し、館を出る様にと、促した。ノンノはイラマンテの手を取ると、ピリカを残して館を後にした。
「母者」
二人のピリカが叫んだ。
小さなピリカは、肥えた戦士に担がれた。
「何をする」
小さなピリカが暴れるのを目の当たりにし、叫んだピリカは、突如、意識を失った。
どれ程時が経ったので有ろう。
意識が戻ると、ピリカはヌプリを強く抱き締め、大野の山に座して居た。




