第98話 コロクル
「あら、可愛いわんちゃん」
ピリカが毛野の里外れに在る猿の館に辿り着くと、ペケルは笑顔で迎えた。
「否、犬じゃねぇ。ホロケウじゃ」
「あら、狼が人の懐の中で大人しくして居る何て不思議ね」
ピリカは、懐に手を遣って、片手で子狼を抱え乍ら、軽やかに馬から降りると、
「ほら」
と、子狼を両手で掴んで、ペケルの方へと顔を向けて差し出した。
すると、子狼は牙を剥いて、唸り始めた。
「あら、怖い。本当、狼ね」
ピリカは、子狼を持ち直し、自分の方へと顔を向けると、
「駄目じゃねぇか」
と、子狼を睨んだ。
子狼は、下を垂らして、嬉しそうにピリカの顔を見返した。
「可愛いなぁ」
ピリカは、子狼のお腹に顔を埋めた。
「臭せぇっ。野生の臭いがしやがる」
「ねぇ、姫。その子、何て名なの」
「あっ。まだ名付けて居らんかった」
「じゃあ、付けてあげなくちゃ。飼うんでしょ」
「うん。そうだなぁ。ヌプリ(山)。ヌプリにしよう」
「こんな小さな子に山だなんて、如何して」
「大野の爺が言うには、そいつの親父は旋って言って、兄弟で大野の山の主だったらしいんじゃ。昨日、吾が爺に言われて沢に芹を取りに居たら、争って暴れ回るホロケウの群れが遣って来て、こいつの眼の前で、巌とかいう兄の狼に殺された。だから、こいつには大きく成ったら親の仇を討って、山の主に成って欲しいんじゃ。だから、ヌプリ」
「あら、酷い事が有ったのね。その子のお母さんは」
「居た。でも、そいつの親父を殺した巌って野郎に連れて行かれた」
「如何してその子は一緒に行かなかったの」
「もう一匹、子狼が居たんじゃが、そいつは母親と一緒に。何故だか、そいつだけ置いて行かれて、しかも、殺されそうに成って、吾が助けて遣ったんじゃ」
「そんな事が有ったの。でも、分かったわ。貴方はその子の命の恩人だったのね」
ペケルは頷くと、少し困った顔をして、
「旦那様には如何に説明しようかしらね」
と、斜め上に眼を遣った。
「そこじゃ。猿に何と言おうか。どうせ、山に放して来いと言うに決まって居る。で、今、猿は」
「旦那様は毛野の館に。昨日は大野からの帰りが遅くて館に行けなかったから、朝早くに出掛けたわ。もう直、帰って来るんじゃないかしら」
「それ、吾の所為じゃ」
「聞いたわ。寝ちゃってたんですってね」
「爺の猪鍋を喰ったら異様に眠く成ってな。気が付いたら朝じゃった。何か、変な夢を観た様なんじゃが。思い出せん」
ピリカがペケルに、大野の山での狼との戦いについて、身振り、手振りを交えて、役者が振る舞うが如く説明して居る間中、ヌプリは大人しくピリカを観て居た。
そんな中、猿が帰って来た。
「ピリカ様、御帰りですか」
「おう」
「そちらの子犬は」
「犬では無い。ホロケウじゃ」
「子狼ですか」
猿は、ピリカからヌプリの方へと眼を向けると、何も言わずに、暫くその姿を観て、頷くと、尋ねた。
「御飼いに成る御積りで」
「あ、あぁ」
「宜しいのではないでしょうか」
ピリカとペケルの心配は無用で有った。
「名は付けて居るのですか」
「ヌプリと名付けた」
「ほう、ヌプリ。山ですか。何故」
「山の主に成って欲しくて」
「山の主。ヌプリ(山)・コロ(領する)・クル(者)ですか」
「そうじゃ」
「それは、狼では無く、熊では」
「確かに。あの山のキムンカムイを爺が殺ったから、こいつの親父達があの山の主に成れたのかな」
「何の事ですか」
「いや。爺から聞いた話じゃが、この話はもうよい」
「はあ。ですが、その狼には既」
猿は何かを言い掛けたが、
「その狼。異様に臭いますな。ピリカ様も、ペケルも、慣れて仕舞って居る様ですが、この部屋にはその臭いが満ちて居ります。飼うなら外でお願いします」
と話を変えた。
「こいつ、未だ小っちゃいから、外に出して置いたら襲われるやも知れぬ。部屋に入れちゃ駄目か」
「うぅむ」
「大きく成ったら必ず外に出す。大きく成る迄。確り洗って、臭いを落とすから、部屋で飼っては駄目か」
「真に臭いが落ちるでしょうか。野生に於いて、臭いは縄張りを示す重要な能力。その能力が洗って取れるもので有ろうか」
「やってみる」
ピリカはヌプリを抱き抱えて外に出た。
猿の館の庭には、野菜の泥を流し、洗濯をする、生活用の水路が流れて居た。
ピリカは、水路脇に置いてあった桶を手に取ると、水を汲みヌプリに浴びせた。
突然の事に、ヌプリは激しく吼えた。
「御免、御免。ちょっとだけ堪えてくれ」
ピリカはヌプリの身体を水で能く流して、臭いを嗅いだ。
「駄目だ」
ピリカは、もう一度、桶に水を汲むと、今度は、ゆっくりとヌプリに水を垂らすと、手でその体毛を揉み込んで、洗った。
水に濡れて痩せ細った様に成ったヌプリを、ピリカは両手で持ち上げ鼻に寄せた。
「少しは取れたのかな。でも駄目だ」
ピリカが、再び水を汲みに行くと、ヌプリは逃げ出した。
「待て」
ピリカは随分と追い掛けっこをし、ヌプリを捕まえた。
「分かった。水浴びだ。一緒に水に入ろう」
眩しい日差しが降り注ぐ弥生の陽気の中、ヌプリを追って駆け、汗ばんだピリカは、ヌプリを抱いて水路に飛び込んだ。
「冷て」
山の水とは違い、それ程では無かったが、弥生の水はそれなりに冷たい。ピリカはそれを我慢して、ヌプリを、何度も、何度も、確りと洗った。
水路の中で、ピリカはヌプリの臭いを確かめると、
「良し。これで大丈夫」
と水路岸にヌプリを置いた。
ヌプリは、数度、身震いをして、飛沫を飛ばした。
「よし、行くぞ」
ピリカが館へと駆けると、ヌプリもそれについて走った。




