第94話 オオノ
「ピリカ様、形名様が御帰国為されるそうです」
毛野の館から戻った猿が伝えた。
「へぇ」
そっけなく応えるピリカは、手足の長い、細身の長身と成り、五年の歳月が彼女を子供から大人へと変貌させて居た。縮れた黒髪は腰辺り迄伸び、肩口で無造作に束ねられて居る。二重で彫りの深い顔立ちに、豊艶とした唇。上唇の真中に施されたシヌエにより、その艶は更に増した。日に焼けた肌は浅黒く、伸びた四肢を覆う柔軟な筋の微かな隆起を際立たせた。
「これから形名様が御帰国為さる旨を、大野の里へ伝えに行くのだが、ピリカ様は如何為さる」
「行く。行くに決まって居るで有ろう」
大野の一族は、安蘇の山々と渡良瀬川の間に開かれた狭い平地に田を築いて暮らしては居たが、実の所、山の恵みが彼らの生活の大半を支えて居た。何故なら、オオノ(大野)の一族は、元来、山中に暮らす蝦夷、オヌ族の一派で有ったからだ。
オオノの一族は、一族内部の縄張り争いを避け、新天地を求めて道奥より連なる山脈を南へ下り、安蘇の山中で暮らして始めた。
オオノの一族がこの地に住み始めた当初は、他の蝦夷と同じく、毛野の倭人との間で、偶に、産物を交換する程度の交流で有ったが、次第にオオノの一族は倭風の暮らしを取り入れ、稲を作り始めた。耕地が増え、収穫量が租を納められる程と成ると、先代の族長、若古は、和気の父、菅古との間で同族の契りを交わし、大野一族と、倭風の名を受け、毛野一族の列に加わる事と成った。
猿は大野一族を介してオヌ族と通じ、毛野からの伝令は猿が大野に伝える事と成って居た。
「行くからには知夫理殿に御挨拶をして頂かねば成りませぬ」
「嫌だ。ウタリ(同胞)の心を失い、爺を追い出して迄、倭に媚びる者に話す価値など無い」
大野一族の現族長、知夫理は、若い頃から自らの一族が蝦夷と呼ばれる事を忌み嫌い、積極的に一族の倭化を推し進めた。それ故、父、若古が、菅古と盟を結んだ時には歓喜に舞ったと言う。
しかし、若古は急速な倭化を望まなかった。租を納める事で、一族の安全が保障されさえすれば、山での暮らしを捨てる気等は毛頭無かったので有る。
蝦夷の暮らしを続ける父を、知夫理は許せなかった。毛野の一族と成った事で、蝦夷と言う出自を封印し、倭人として生きて行けると期待して居ただけに、尚更である。
知夫理は、族長で有った父、若古を安蘇の山へと追い遣った。
蝦夷としての誇りを持つピリカは、そんな知夫理を蔑んで居た。
「そう言い為さるな」
「其方にとってウタリとは何だ。そうも簡単に捨てられるものなのか。よもや、其方も和気の元で捨て去ったとでも言うのか」
「好きに為されよ」
ピリカと猿は馬を馳せ、渡良瀬川を越えて、大野の里に至った。
「吾は行く」
ピリカは里の中へ入る事無く、馬を山へと向けた。
山の中には、若古が居た。
大野の里を追い出された若古は、森の奥深くに小屋を築き、オヌ族本来の生業で有る狩りに勤しんで居た。
ピリカが小屋に着くと、小屋の外には若古が仕留めた獣の毛皮が吊るして有った。
「鹿、猪、兎」
ピリカは毛皮を手に取って確かめた。
「全て、心の臓を一撃か」
小屋の反対側に回ったピリカは、
「何だ、この黒いの」
と、眼を丸くした。
「キムンカムイじゃねぇか」
キムンカムイは、キムン(山にいる)、カムイ(神)の意で、熊を表す。
「流石に槍を使ったか。でも、これも心臓を一撃だ。すげぇなぁ、爺は」
「爺」
小屋に人気の無い事を察したピリカは、森の中へと声を発した。
「何処へ行ったのかな」
ピリカは大きく息を吸い込むと、狼が発する様に吼えた。
山に響くピリカの遠吼えに呼応して、山の彼方此方で狼の遠吼えが続いた。
すると、奥の茂みで、枝葉の擦れる音が微かにすると、その中から空を裂く一閃が走り、ピリカの面前を通過して、近くの木に突き刺さった。
「爺、危ねぇよ」
「腰の物を抜くには抜いたか。獣ならば、応じられたで有ろうな。じゃが、その矢を薙げねば、戦場で命は保てぬ」
木々の間から、毛皮を身に纏った若古が、腰に二羽の兎を垂ら下げ、右手で猪を引き摺って現れた。左手には、蝦夷の用いる短弓、夷弓を携え、腰には矢を入れる靭を背負って居た。
「すげぇ。美味そうだな。猪肉が喰いてぇ。なぁ、爺、猪鍋を作って呉れ」
「ピリカよ。挨拶も無く、飯を喰わせろとは不躾けじゃのう。もう少し、姫らしうせい。で、今日は何用じゃ」
「そうだ。形名が、倭の大王より毛国の国造に任じられ、毛野に帰って来るんじゃと」
「ほう。何やら流れが変わるやも知れぬな」
「そうかなぁ。それより、あのキムンカムイを倒した時の話を聞かせて呉れよ。爺」
ピリカは跳ね踊って若古の小屋へと入って行った。




