第92話 トヨキ
倭としては、唐と良好な外交関係を築き、半島南部への軍事介入を有利に進めようとの思惑が有ったが、それは儀礼の拒否により大いに狂う事と成った。しかし、大王には、儀礼を受け入れる訳には行かぬ理由が有った。
大王は、遣唐使の帰還に合わせ、倭と連合を結ぶ各地の王で有る国造を、飛鳥に召集して居たのだ。
もし大王が、儀式を見届ける国造達の前で、国書を読み上げる高表仁に叩頭けば、権威は確実に失墜する。今、倭は連合を纏め上げ、大王唯一人が大きな一つの国を統治すると言う新体制を作り上げる為に動き始めた所で有る。大王が侮られれば、求心力は失われ、国造から権限を奪い去り、税を徴取する事など不可能。
大王は、逆上した高表仁が肩を怒らせ、岡本宮を後にするのを目の当たりにして、騒めき始めた国造達に対し、
「皆の者、狼狽えるでない。吾等は十分に文化の成熟した国で有り、決して野蛮な夷狄の国などでは無い。如何に思う」
と発した。
空を貫く、威厳に満ちた大王の言霊は、国造の口を塞ぐのには余り有り、皆、直立不動と成って大王を凝視した。
「何故に、吾等は、侮られる」
大王は続けた。
宮の朝堂庭は、張り詰めた静寂で満ちた。
「唐は高句麗に戦を仕掛けて居る。此度、吾等が唐の求める儀礼に従わなかったと言う事は、吾等も討伐の対象となったと言う事で有る。分かるか」
大王は、庭を眺め廻した。
国造の多く、特に、筑紫島の者達は下を向いた。唐との戦と成れば、彼らの国々が最前線と成った。また、周囲の国造にとっても他人事ではない。倭連合に属している以上、隣国の求めに応じて兵を出さねば成らなかった。
「唐に侮られる国の有り様では抗えぬ。連合内の国々で競い合うて居る場合ではないのだ。今、吾等はこの島国に幾多に御座す小さな国々を一つに束ね、唐と対峙する事の出来る大きな国を造らねば成らぬ」
大王は、唐との外交を一旦停止し、内政を整え、国力を増強する事を選んだ。結果、次に遣唐使を派遣する二十一年の間に、倭連合は、中央集権体制を確立し、国号を日本とした。
この混乱の中、急遽、形名の毛野国造任命の儀式が執り行われる事と成った。
丁度、遍く全土の国造達が集まって居り、大王が、直接、国造を任ずる儀式を、今後の前例として、盛大に催すには都合が良かったのだ。
「形名様、準備は宜しいか。朝服は、当家で揃えた物を召して下され」
車持の当主、国子に促され、形名は毛野宗家の主として、薄紫の衣に袖を通した。
「形名君、随分と見違えたな」
羨ましそうに見詰める皆麿が、皮肉と揶揄いを混ぜて声を掛けた。車持分家の皆麿が、紫の衣を身に纏う事など、多分、一生、訪れないで有ろう。
形名は、飛鳥に在る車持の館で支度を整えると、国子と皆麿と共に、岡本宮へと向かった。
「さあ、ここからは一人で」
南門の前に至ると、国子が不安気な形名の眼を観て頷いた。
形名が、南門を潜り、眩い光に溢れる朝堂庭に一歩足を踏み入れると、そこには階位に応じた色鮮やかな衣装に身を包んだ国造達が整然と並んで居た。
形名が、南門から安殿へと一直線に向かう、庭の中央へと歩みを進めると、国造達は一斉に形名に眼を向けた。形名には、自分に注がれた視線が、痛かった。今直ぐにでも、逃げ出したかった。しかし、決められた事を、決められた様に行う。これが儀礼で有る。儀礼を破れば、一族、否、国に咎が及ぶ。形名は、緩り、緩りと、白い玉砂利を踏みしめ、儀礼通り優雅に歩んだ。
国造任命式は、外安殿で行われる事と成って居り、形名は、外安殿の扉前で、両手、両膝、額を地に着つける磕頭の礼で謁見を待った。
「毛野国の形名公。中へ」
形名は、下を向いた儘、両手、両膝を地に着いて、部屋の中へと躙り入り、再び、額を地に着けた。決して、大王の方へと眼を遣っては成らぬ。これが儀礼で有った。
「毛野の祖は、御間城大王(第十代崇神天皇)と、木乃国造で有られた荒河戸畔殿の媛君、遠津年魚眼眼妙媛との間に生まれた豊城命である。豊城命は御間城大王の命により東国を治め、その四世孫の荒田別命が毛野を治め、その命脈が毛野一族に続く。其方は、未開の地を開きて人の住まう国とした御肇国大王の血を継ぐ、正統な毛野の主成り。よって、毛野の国造に任ずる」
蘇我蝦夷が宣下を伝えた。
ここに、毛国王、毛野形名が誕生した。




