第90話 ヒャクカン
「な、何をする」
国忍は怒鳴った。
新羅装束の男は、驚愕の表情を浮かべて、その場に蹲み込み、股間から小水を垂れ流して居た。
風天丸は、黒雷丸と若雷丸に遅れて抜いた剣で掌を打つと、
「随分と早いな。其方等が斬って居らねば、儂が殺って居ったわ」
と笑顔で頷いた。
「おい」
国忍は、驚いた様子で、風天丸へと眼を遣った。
「あぁ、爽快。気持ち良いわ。黒の所為で、この船に乗る前から、腹が立って、腹が立って、仕様が無かった。こいつらをぶっ殺して気分が晴れたわ」
若雷丸は、未だ血の滴る剣で、左の肩を軽く叩いた。
「なぁ、で、この肥った野郎は如何するよ」
若雷丸は、新羅装束の男が二重顎で作り出す深い溝に、剣先を軽く減り込ませた。
「あ、あぁぁぁ」
新羅装束の男の眼からは涙が溢れ、鼻からは粘稠の汁が滴り落ちた。
「若、もう、気分は収まったか」
黒雷丸が問うと、
「あぁ、これで十分だ」
と、若雷丸は、新羅装束の男に向かって、突如、背を向けると、回転の勢いで繰り出された剣刃で、男の頭と胴体の繋がりを断ち斬った。
「何をする」
国忍は、狼狽して大声で叫ぶと、小刻みに震えて居た。
「その男は蘇我本家の取引相手。殺してしまって、如何するのだ」
「そこは、俺等、盗賊に御任せ下され。今宵の事は、唯、新羅の男が、難波津の街で盗賊に襲われ、命を失っただけ。能く有る咎事に過ぎませぬ」
黒雷丸は、目尻を下げて、眼を細めた。
「国忍様。咎は、危険な取引に手を出した儂等にも有ります。ここは蛇の道は蛇。咎事の処理は、盗賊に任せましょう」
風天丸が促した。
国忍は混乱していた。
国忍にとっては、軽い気持ちで手を出した、本家にしか許されていない鉄の取引。容易く、大きな富が得られると考えていたのだが、誤算で有った。
鍵は盗まれるし、人も死んだ。
鍵が帰ってきた所迄は、未だ、運が有ると思っていた。しかし、眼の前には五人の男が倒れている。そして、特に問題と成るのは、蘇我本家の当主、蝦夷と、直接通じる新羅の男が、眼の前で、骸と成って仕舞った事で有る。
これが蝦夷の知る所と成れば、国忍の首は、確実に、胴を離れる。
それ所か、高向の一族、郎党の全てに、咎が及ぶ可能性すら有る。
如何すれば良いのか。何が正しき筋目なのか。
国忍は、眼を瞑った儘、
「分かった」
と、幾多の戦場で、選ぶ道を誤る事の無かった風天丸の判断に、従う事とした。
「では、五体の骸の処理と、口止めの対価で、五十貫。鍵の対価と合わせ、鉄鋌百貫で、宜しいかな」
黒雷丸が、国忍の眼を強く見た。
国忍が風天丸に眼を遣ると、風天丸は小さく頷いた。
「分かった。それで宜しく頼む」
国忍は黒雷丸に頭を下げた。
「では、一刻程、この船に、誰も近付けぬ様、外で御待ち下され。その間に、全ての手筈を整えましょう」
黒雷丸は、この手の仕事に慣れていた。五台の荷車と十人の人足を半刻程で集めると、一刻を待たずして、鉄鋌と骸を荷車に積み分け、丁寧に、船内に残った血痕を全て拭き取り、恰も、何事も無かったかの様な態として、船を後にした。
その間、国忍と、風天丸は、その流れる様な手際の良さに、眼を奪われ、唯、呆然と眺めるのみで有った。
『神隠し』
村里で、安穏とした日常を過ごしていた一家が、その生活感を残した儘、ある日、突如、消え失せる。そんな事件が、稀に起こる。
人々はこの様な事件を、神の仕業と考えて居た。
――否、そうではないのだ。
――これは、多分、彼等の様な盗賊が行っているのだろう。
国忍は確信した。
「なあ、風天丸。これで良かったのか」
「国忍様。良かったのですよ。鍵が返って、鉄鋌が手に入った。手間賃が一割。決して、悪い商いでは御座いません。しかも、あの新羅人。儂等に鉄鋌を渡さない。否、それ所か、蝦夷様に儂等の鉄の取引を注進する可能性すら有りました。それを、あの盗賊達が、全て、解決して呉れたのです。国忍様は、幸運の持ち主です」
「そうやも知れぬな。さて、ここに残された大量の鉄鋌。今夜中に、如何にして運ぶか」
船内の戻った国忍は、蔵の内扉を開け、中を覗き込んだ。
「無いぞ。何も」
国忍は、眼を擦った。
「遣られましたな。流石、盗賊の所業。それにしても、五台の荷車で持ち運べる鉄鋌は、精々、二百貫。残りは何処へ行ったのやら」
風天丸は首を傾げた。




