第86話 クグツ
「それは駄目だ」
「何がだ。貴様の暗雲に、吾が雷光は相性が良い。故に、貴様は、吾には勝てぬ」
黒雷丸は、一つ大きく笑うと、返した。
「当にその通りだ。だがな、其方。俺を殺って、術を止めようと思うて居るで有ろう」
「そうだ」
「それが駄目だ。術は止まぬ。それと、其方。あの娘。気を失えば、首を絞めるのを止めると思うて居らぬか」
図星で有った。
鎌子は、口から泡を吹く与志古を見て、与志古が直に気を失って仕舞うで有ろうと信じて居た。気を失えば、力が抜ける。力が抜ければ、手が外れる。
尋常の理である。
「あの娘。既に気は失のうて居る。だが、観てみ成され」
鎌子は、後ろを振り返り、与志古を観た。
全身を青に染めた与志古は、身体を痙攣させ乍らも、未だ、自らの首を絞め続けて居た。
「与志古媛君」
鎌子は、与志古の元へと駆け寄ると、剣を捨てて、与志古の手を引き剥がそうと両の腕に精一杯の力を込めた。
――動かない。
女子の与志古の腕は微動だにしなかった。
鎌子は、何度も、与志古の腕を引っ張った。
引っ張る腕に、与志古の身体が付いて来て、絞める手が首から離れる事は無かった。
「糞」
鎌子は、放った剣を両手で掴むと、
「雷光」
と発し、剣を稲光で包んだ。
「何をする」
黒雷丸は呆気に取られた。
鎌子が、横たわる与志古の横で、剣を振り上げると、剣先からは無数の稲光が天へと放たれた。
天を切り裂く無数の稲光は、上空で渦を巻くと、一つの螺旋の光の束と成って、与志古へ向けて天を下った。
「頼む。建御雷之男神」
「良いのだな。その娘の眼が見えぬ様に成っても」
光の渦は、与志古の頭部に向かって細く伸び、面前で弾けて光の糸が四散すると、与志古の両目を渦に巻き、与志古の中へと入って行った。
自らの首を絞めた姿勢で硬直する与志古の身体は、大きく弓形り、宙へ浮き、音を立てて、地に落ちた。
地に落ちた衝撃で、自らの首を掴んでいた与志古の腕は解かれ、与志古は四肢を投げ出して仰向けと成った。
「与志古媛君」
鎌子は、地に膝をついて、与志古の胸に耳を当てた。
――止まって居る。
「建御雷之男神。如何成る事だ」
「些と、強過ぎたかのう」
「巫山戯るな」
「大丈夫。其方も観たで有ろう。糸の如く細き稲光を。あれで死ぬ者は居らぬ。心の臓を数度叩けば、戻る筈だ」
「分かった」
鎌子は、与志古の胸元に手を当てて、心の臓の位置を確かめた。
すると、
「ねえ、鎌子君。何処を触って居るの」
と、与志古の右手が、鎌子の左頬を捉え、良い音を奏でた。
「眼は、眼は見えて居るのか」
鎌子は、左頬を摩り乍ら尋ねた。
「見えて居るわよ。じゃなきゃ、叩けないじゃない」
「それもそうだ」
鎌子は安堵した。
「それは駄目だ」
鎌子の成した技を見届けた黒雷丸は顎鬚を摩った。
「残念だが、其方の術は解けた。そして、其方の暗雲が、吾、雷光の前では無力で有る事が示された。なぁ、既に鍵は返したのだ、この儘、吾等を帰らせて呉れ。其方等の仲間に成るとの話は、無かった事とさせて頂く」
鎌子は、与志古に手を差し伸べるて、
「さあ、帰ろう。皆が心配して待って居る」
と、引き起こした。
「あの女達の所へ」
「否、もう津へは戻らぬ。皆とは補の待つ野で落ち合う事と成って居る。そこへ行こう」
「おい、おい、まだ終わっては居らぬぞ。其方、最早、技は出せぬで有ろう。其方にも闇を潜ませ、俺の傀儡とし、雷の仲間と成って頂く。良い能力だ。建御雷之男神は」
「嫌な事だ。断る」
「力づくで連れて行くまでだ」
黒雷丸は大きく息を吸い込むと、
「暗雲」
と息を吐きだした。
鎌子は、剣を中段に構えて、黒雷丸の口から流れ出る黒い煙を迎えた。
――ここ迄で有ったか。
鎌子が、覚悟を決めると、
「先程の技は、相当に力を抑えて居ったが故、あの闇を切り裂く程度の原動霊力は残って居る。だが、これが本当に最後だ」
と、建御雷之男神が伝えた。
黒雷丸が吹いた黒煙が、鎌子と与志古の周囲を包んだ。
与志古は闇の力で、気を失った。
「雷光」
鎌子が唱え、剣を薙ぐと、一瞬にして周囲が明るく成り、黒雷丸の術は消失した。
「あらら、俺のも尽きたか」
黒雷丸は、顎鬚を触って、目尻を下げた。
「何が可笑しい」
「だから、駄目だと言ったで有ろう」
「何がだ」
「その娘の闇。真に消えたと思うか」
黒雷丸は満面の笑みを蓄えた。




