第85話 タガエル
「吾、持ってないわよ」
「えっ。持って居ったではないか」
「捨てた」
「えっ」
「嘘」
「おい、何を戯れて居る」
黒雷丸は苛立ち始めた。
「与志古媛君。お願いだ。あの男は殺る気満々で有るが故、冗談を言うて居る場合では無い」
「そうなの」
与志古は後ろを振り返って、黒雷丸を一瞥すると、
「彼奴、本当に嫌」
と鎌子に抱き着いた。
「何処に有るのだ」
鎌子は、与志古の瞳の中を覗いた。すると、そこに闇は漂っては居なかった。鎌子は安堵し、
「教えて呉れぬか」
と微笑んだ。
与志古は、笑顔を返すと、鎌子の胸板に自らの胸元を押し付け、後ろに手を回した。
「ここ」
鎌子の腰の帯の間から簪を引っ張り出した。
「いつの間に」
「鎌子君が、あの淫らな女と、馴れ馴れしく、遣唐使を眺めて居る時よ。本当に、全く気が付いて居なかったのね」
与志古は鎌子を少し睨んだ。
「あの人混みでは、仕方が無い。幾度も、幾度も、肩やら、腰やらに、人が当たって来て居ったではないか。気付ける筈も無い」
鎌子は苛立った。
すると、黒雷丸が、
「おい。早う、その鍵をこちらに放れ。其方らの痴話喧嘩に何ぞ、付き合うて居る暇は無い」
と大きく声を掛けた。
鎌子は、与志古が手にした簪を受け取ると、黒雷丸の方へと放り投げた。
「与志古媛君。吾の後ろに隠れて居れ」
鎌子は与志古の眼を見て優しく告げた。
与志古が鎌子の後ろに立つと、鎌子は剣を正中に構えて黒雷丸へと向き合った。
「おい、おい。如何成る御積りだ」
黒雷丸は呆れた様子で尋ねた。
「もう、良かろう。鍵は返した。これ以上、吾等に関わらずとも、良いではないか」
鎌子の剣先からは稲光が瞬き始めた。
「約束を違えると申すか」
「約束など、其方が一方的に決めたもの。吾は其方等の様な悪党に成り下がる気など、毛頭無い」
「なぁ、若いの。約束を違えれば如何成るのか。分かって居らぬのか」
「与志古媛君を返し、術を解いた所で、其方の負けだ。鍵を返して遣っただけでも有り難いと思って頂きたい」
「分かって居らぬの。御若いの」
黒雷丸はほくそ笑むと、
「娘よ、御自害成され」
と、低音の胸に響く声で、与志古に指示を与えた。
すると、与志古は、突如、自らの首を絞め始めた。
「何をして居る。与志古媛君」
鎌子は左手を柄から外すと、右手で剣を握って黒雷丸への警戒を保ちつつ、与志古の腕を掴んで、首に掛かる手を剥がそうとした。が、その力は女の物とは思えぬ程に強く、片手では如何する事も出来なかった。
鎌子は、剣を手放すと、両手で与志古の腕を引き剥がそうと力を込めた。
与志古の口からは泡が溢れた。
鎌子が、与志古の瞳を確認すると、与志古の瞳の奥には闇が溢れて居た。
――そうだ。
鎌子は、何かを思い付くと、
「稲光を加減して、与志古媛君に浴びせる事は出来ぬのか」
と、頭の中の建御雷之男神に話し掛けた。
「出来るさ。だが、如何する積りだ」
「先程、黒雷丸が放った闇を切り裂いた様に、雷光で与志古媛君の瞳の奥の闇を切り裂けぬものかと思うてな」
「光は必ず闇を裂く。殺さぬ程度の加減は出来るが、視力については保障出来ぬ」
「左様か」
「それと、加減はしても、ここで雷光を使って仕舞えば、次はもう出せぬぞ」
「分かった」
鎌子は、口から泡を流す与志古を抱きしめると、優しく横たえた。
与志古が自らの首を絞める手はその儘で有った。
鎌子は、地に落ちた剣を拾って、与志古に向かって構えると、剣先から稲光を発し、大きく振り被ると、大声を上げ、黒雷丸に向き直った。
「うおぉぉぉぉ」
鎌子は、剣を腰元の左下段に構えると、大きく前へと飛び出し、黒雷丸の前で、一瞬、深く屈むと、剣を振り上げ、高く跳ねた。
「如何した。若いの」
黒雷丸は、剣を抜くと一歩踏み出し鎌子に応じ、剣を弾いた。
地に足を着いた鎌子は、
「貴様を殺る」
と、瞬く剣先を黒雷丸に向けた。
鎌子は黒雷丸を倒し、与志古に掛けられた術が解ける可能性へと、賭けたのだ。




