第82話 カクセイ
「伊邪那美命宇士多加礼許呂呂岐弖於左手者若雷居」
若雷丸が唱えると、左手に握られた剣の鋼の青みが増した。
若雷丸に対峙する鎌子の額からは、汗が流れ落ち、全身が大きく震え出した。
「どうした若いの」
若雷丸が馬鹿にした様に発した。
「若いって、同じ位の。否、其方の方が餓鬼で有ろう」
鎌子は、剣の柄を握る両手を確として、全身の筋に力を込め、肉体の震えを抑え込んだ。
「吾が名は鎌子。中臣の鎌子だ。骸と成って果てる前に、この名を、確りと、頭に刻んで置け。御禿びさん」
鎌子は、強い言葉で自らの精神の弱さに蓋をして、闘志を保った。
「五月蠅せぇ」
若雷丸は前方へ飛び出し、鋭い剣先を鎌子の喉元へと突き入れた。
鎌子は、体を左へ傾け、若雷丸の剣先を外したが、剣刃が鎌子の右頸の薄皮を斬り裂いた。
一筋の赤血が宙を漂う。
鎌子は体を駒の様に回転させると、若雷丸の頭に向けて剣を薙いだ。
若雷丸は身を屈めて鎌子の繰り出した剣を躱し、次は下から剣先を鎌子の喉元へと突き上げた。
鎌子は後ろへ飛んで、若雷丸との距離を取った。
鎌子の胸の鼓動は激しく、飛び出して来そうな心の臓を、肋骨の檻が辛うじて閉じ込めて居た。
流れ出る汗の量は激しく、鎌子の全身からは蒸気が立ち上がった。
頸を流れる汗は、裂けた皮膚から滲み出る血液と混じり合い、鎌子の衣服を赤く汚した。
鎌子は、振るえる膝を、騎馬立ちした足の踏ん張りで抑え、剣を正中に構えて、大きく肩で息をした。
「面白い。非常に面白い。其奴の中で、雷神が暴れよる。若の雷神に興奮して居ると見ゆ」
暗闇の中で、白い歯を覗かせ、黒雷丸は楽し気で有った。
「若、間違っても殺すなよ」
「はぁっ。何言ってんだ、黒は。変なもんが出て来ちまう前に殺っち舞うぞ」
若雷丸は鋭い剣撃を流れる様に繰り出した。
若雷丸の振る剣の動きに遅れて、刃の光が青い軌跡を描いた。
そして、その青い光の後には、赤い血飛沫が背景を彩った。
「息が上がって居る癖に、餓鬼が上手く躱しやがる」
若雷丸は確実に仕留めに行って居るのだが、鎌子が斬らせて居るのは薄皮一枚で有った。
「だから、其方の方が餓鬼だと申して居るではないか、御禿びさん」
「五月蠅せぇ」
若雷丸の左手から、青い閃光が矢の様に鎌子の喉元を目掛けて飛び出した。
「駄目だ」
部屋の中から、黒雷丸が叫んだが、事既に遅し。
駄目だ。
黒雷丸の言葉を、鎌子は、自らに向けられたもので有ると感じていた。鎌子の脳は、若雷丸の突きの速さに、自らの身体が、全く反応出来て居ない事を感じ取って居た。
現実の時の流れと、脳の認識速度の不一致。
人間は生命の危機に瀕した時、脳内では、平時より多くの神経細胞を駆使し、お互いを行き来する情報伝達速度を高め、認知機能を最大限とし、死を回避しようと試みる。その結果、単位時間当たりの情報処理数が格段に多く成り、人間は、眼の前で生じる事象が、緩慢に再生されて居る様に感じると言う。
鎌子は、周囲の景色が止まって居る様に感じて居た。そして、その中を、若雷丸の左手から放たれた青き光が、徐々に、徐々にと、鎌子の喉元に迫り来るのを冷静に見て居た。光の中に見える剣の先も、鎌子との戦闘で欠けたと思われる新しい刃毀れも、能く見えて居た。
嗚呼、このままこの剣先が、自らの喉に突き刺さり、項を突き破って自らを絶命させるで有ろうと、鎌子は解した。
脳はこれ程迄に早く認知して居るのに、身体を一切動かせずに居たが故。
鎌子は、眼を閉じ、死を受け入れた。
閉眼の闇の中、直ぐに突き刺さるものと思って居た剣先が、喉を貫く感覚は無かったが、鎌子は、自らは既に絶命したものと考えて居た。
嗚呼、これが極楽浄土か。否、吾の所業では黄泉が相応しい。
すると、その刹那、
「諦めるのか、この糞餓鬼が」
との言葉が、頭の中で木霊した。
「だから、其方の方が」
と、鎌子が瞳を開けた刹那、大きな金属音が鳴り響いた。
「あれを避けるか」
黒雷丸は暗い部屋の中から明るみに出て、眼を細めて見極めた。
そして、大声で笑うと、
「出よった、出て来よった、雷神が」
と燥いだ。
鎌子は、剣を喉前に構えて、平で若雷丸の放った剣の先を受け止めたのだ。
突きを放った若雷丸は、小屋の戸口まで吹き飛ばされ、黒雷丸の前で尻餅を搗き、左肘を擦り剥いて血を流して居た。
「なぁ、黒。仲間が吹っ飛ばされて楽しいか」
「済まぬ、済まぬ。だが、初めてだ。血脈の伝承者から始祖神が生まれ出づる様を観るは」
黒雷丸は嬉しそうだ。
「見えぬか、若」
「何が」
「奴の剣先の上」
「何だ。日の光を浴びて、光ってんだけじゃねぇんか」
「違う、若。伝説の如く、あの剣先の上で胡坐をかいて居るのだ。建御雷之男神が。奴は覚醒したと見ゆ」
「良いなぁ。御前ぇの能力は。俺には見えねぇからな。俺等の借り物の能力じゃあ、出来る事たぁ限られる」




