第81話 コウジン
鎌子は、一目散に砂浜を駆けた。幾つかの漁師小屋の前を通過すると、一つの小屋の前で、礑と立ち止まり、
「与志古媛君」
と叫んで、剣で蓆戸を切り裂いた。
暗闇の中で、与志古は、座して動かず、四肢を投げ出し項垂れて居た。
「貴様等、与志古媛君に何をした」
鎌子は小屋の中へと怒声を発した。鎌子には中に居る者達が誰なのかが分かって居た。
「遣って呉れるじゃねえか」
小屋の外へと飛び出して来たのは若雷丸であった。
若雷丸は、鞘から左手で剣を抜くや否や、逆袈裟に鎌子を斬り付けた。
鎌子は、軽やかに後ろへ飛ぶと、若雷丸を漠然と視野に捉えた。雷の者達をあれ程までに恐れていた鎌子は、もうそこには居なかった。
「おい、若。遊んで居る暇は無い。手加減するな」
「なぁ、黒、俺は剣を抜く時に手加減何てしねぇよ」
「ほほう。では、出来るのか、その若いのが。若の初太刀を躱すとは」
小屋の中で、黒雷丸が顎鬚に手を遣って微笑むと、
「紛れだよ」
と、若雷丸が次の剣を横一閃に振るった。
鎌子は、鼻先紙一重で若雷丸の剣先を躱すと、若雷丸の剣に自らの剣を沿わせて、一気に間合いを詰め、
「現出建御雷之男神」
と祝詞を唱えた。
「ほう、もう出すんか」
若雷丸は、大きく後ろに飛び退き、右膝を付いて、剣を逆手に持って横一文字に構えると、柄頭に右掌を添えて、斬撃に備えた。
鎌子は高く飛び上がると、両腕で大きく振り被った剣を、渾身の力を込めて振り下ろした。
「出さねぇのかよ」
若雷丸は、剣を薙いで鎌子の剣を弾くと、首を傾げた。
鎌子は、若雷丸の言葉に応じず、続け様に剣を振るった。
「おい、御前。何なんだ。詠唱しといて。出さねぇのか」
若雷丸は、繰り出される鎌子の剣を弾きながら、首を傾げた。
「何をだ」
鎌子は、若雷丸の言葉の意味が分からぬ儘、剣を振るい続けた。
「だから、御前が遣ったんじゃねえかよ、降神詠唱を」
「降神詠唱」
若雷丸と少し間合いを取った鎌子は、解せぬ顔して聞き返した。
「御前が、先、唱えたのは何なんだ」
「吾家の剣技だ。決死の剣撃の前には詠唱を行う」
「気合か。気合を入れたのか」
若雷丸は噴き出した。
「気合を乗せて剣を振るって、何が悪い。笑うな」
鎌子は若雷丸を睨み付けた。
「そうだ、笑ろうては居れぬぞ、若。其奴、血脈の伝承者だ」
部屋の中から、黒雷丸が若雷丸の背中に向かって告げた。
全ての人間は、両親からの血を受け継ぐ事で、この世に生を受ける。先祖から伝えられた血は、丸で、心の臓から拍出された血液が、幾多の分岐を繰り返し、様々な臓器に張り巡らされる、血脈の様に、無数の子孫の中を流れて居る。
その血が伝えている物とは何か。能力である。
人は血によって、親から子へと能力を受け渡し、その血が絶えるまで、代々、その能力は繋がれる。
能力と言っても、通常は凡庸で有る。
子とは、父と母の血が混じて生み出された存在で、父の父母、母の父母、祖父の父母、祖母の父母と言った様々な能力の混血児で有るが故、能力は均質化され、多くの個々人に能力の差はない。
だから、蛙の子は蛙なのだ。通常は。
しかし、稀に、この常なる理が壊れる事が有る。
鳶が鷹を生むと言う具合に。
鷹は、世に出て、名声を上げ、国の根幹を支える一族を形作る。
名族の誕生である。
この名族を生み出した鷹は、一族の祖と呼ばれ、神として崇められる。
大王の一族では天照大御神が、中臣の一族では天児屋根命が、始祖神と言われている。
この始祖神の能力を受け継ぐ者が、血脈の伝承者である。
「本当か、黒。見えんのか」
「ああ、奴の中に祖神が見える。吾等と同じ、雷神が」
天児屋根命は雷神では無い。天照大御神を占術と呪術を用いて表舞台に返り咲かせた、呪詛の神で有る。
しかし、鎌子の中に宿るのは、建御雷之男神。鎌子が生まれた、東国の那珂国に在る香島神社の主祭神。雷と剣の神で有る。
「だが、何かに縛られて居ると見え、其奴の外に、出ては来られん様だ」
黒雷丸は眼を凝らして鎌子の中を見通し、
「そうか。面白い。これは始祖神の蛹だ。珍しい物が観れるやも知れんぞ」
と、嬉々とした声を上げた。




