第8話 オオナムチ
ピリカは崖上に頭を出すと、地に伏す白狼に気が付き、
「ホロケウカムイ」
と叫んだ。
「おい、形名。ホロケウカムイは群れを連れて引き上げなかったのか」
「ホロケイカムイって」
(そりゃあ、分からぬはな)
ピリカは頷き、
「白狼の事だ」
と答えた。
「白狼は群れと一緒になって僕に襲い掛かって来たんだよ」
ピリカは形名の言葉を流すと、崖上に飛び上がった。白狼へと小走に近付くピリカは、骸の胸と腹に立つ二本の矢を眼にした。
「貴様の矢か」
ピリカは馬上の猿に向かって尋ねた。
ピリカは、白狼に突き刺さった矢が、蝦夷の用いる道具であることに気が付いていた。
「ウタリ(同胞)だな。何処のコタン(集落)だ」
「オヌだ。ここでの名は猿」
「オヌの山猿か」
ピリカは笑った。
「何故逃げた」
猿はピリカを呆れ顔で眺めた。
「形名が音の鳴る石塊を呉れると言うから、唯、付いて来ただけだ。逃げてなど居らぬ」
ピリカは語気を荒げた。
「帰るぞ」
と、猿が二人に告げた時、
「父上の、父上の剣が」
と、自らの剣が二つになった事に気が付いた形名が啜り泣きを始めた。
(此奴、短くなってからも見事に白狼の牙を防ぎきって居ったのに、その事には気が付かずに剣を捌いて居たと言うのか)
形名の見事な剣技と体捌きを注意深く観察し、白狼と形名の間に生まれた僅かな隙を見計らって、矢を放った猿は、その姿を観て不思議に思った。
「形名様」
猿が声を掛けたが、形名は膝を折って地に座したまま、折れた剣を両の掌に握り締め、大きな声を上げて泣き始めた。
猿は和気の言葉を思い出した。
「猿よ、儂は形名に剣技を授けて居る時、腑に落ちぬ事があるのじゃ。形名は剣を振るって居る最中、決して顔を上げぬ。相手の姿を観て居らぬのに剣を捌けるのか。儂も長年剣を振るって居るが、頭を下げたまま戦う事など出来ぬ。そして、稽古後、繰り出した技について形名に尋ねると、奴は覚えて居らぬと吐かす。形名は意識を失のうとるのやも知れぬ。形名の父、池邉もそうであった。池邉の剣は攻めが強く、電撃宛ら。主の剣技とは斯くあるべきと言う様な、見事な剣撃であった。しかし、池邉もその技の記憶が無いと言って居ったのだ。剣を握った後は剣任せ。池邉が言うには、上家に受け継がれる“オオナムチの血”だそうな。形名にも、多分、それが受け継がれて居る。じゃが、我ら下家にはその様な都合の良い血は流れて居らぬ。悔しいのう」
「形名様。折れた剣はどうする事も出来ませぬ。それを持って館へ帰りましょう」
猿には二人を館に連れて帰る役目があった。
形名は、折れた剣の断面を、何度も、何度も、合わせた後、
「そうだ。乙鋤殿なら何とかしてくれるかも知れない。乙鋤殿の所へ行こう」
と言い出した。
「成りませぬ」
と猿が諭したが、
「嫌だ」
と形名は駄々を捏ねた。
「形名様。御自分が為さって居る事が御分かりですか。アペの姫を勝手に連れ出し、今、館は騒ぎに成って居るのですぞ」
と猿が説いたが、
「嫌だ」
「形名様」
こんなやり取りが何度も続いた。
「分かりました。今宵は乙鋤様の所へお連れします。そして、明朝、館へ帰りましょう。これで宜しいですか。形名様」
猿は折れた。
「うん。ピリカも一緒に行くんだよね」
涙と鼻水でべとべとの顔をピリカに向けた。
「お前、汚ねえなあ」
(男がめそめそと泣くか)
と、ピリカは呆れた。
形名は袖で鼻水を拭い、
「ピリカ行こう。岩壺。乙鋤殿の所で一番良い音が鳴るのを探そう」
と笑顔を撒いた。
「猿。頼むぞ」
形名は、少し主に戻って、指示を出した。
「それでは参りましょう。形名様。ピリカ様」
と、猿は二人を馬の背に乗せた。




