第77話 ヨツノヒトミ
形名と斐が眺める難波津の海に浮かぶ三十二艘の船の一つに、国忍と風天丸が居た。
「任那からの荷は、明日、遣唐使に伴って、確と、届くので有ろうな」
国忍が、薄暗い部屋の奥で、壁に背を預けて深く腰掛ける、恰幅の良い新羅装束の男に問うた。
「大丈夫。手筈通りよ。問題無い。何も問題無い」
男は新羅 訛りの辿々しい日本語で答えた。男の左右には二人ずつ、護衛と思わしき男が抜身の剣を持って立って居た。
「物騒な物は鞘に納めて呉れんかのう」
風天丸が、低く落ち着いた声で、新羅装束の男に求めた。
「気にしない。気にしない。倭の人達、私の国を襲った。皆、その記憶、忘れてない。忘れられない。信じられない。だから、この儘で良いね」
男は笑顔を作ったが、瞳の奥では倭人を拒絶して居た。
「鍵は有るか。大丈夫か。鍵が無い。取引き出来ない。船の倉、開ける鍵、無い、それは駄目よ」
「分かって居る。大丈夫だ」
国忍は、この一月、鍵を探し続けて居た。当然、与志古を疑い、車持国子に、持ち帰った簪を返す様にと求めた。国子も、与志古を疑い、娘に気付かれぬ様に、国忍の求める鍵の付いた簪を、何度も、何度も、探した。
結局、国忍の手元に届いたのは、頭に紅珊瑚の玉の付いた簪。
国忍の手元に鍵は無かった。
「眩しいな」
国忍は、甲板下の薄暗い船室から外へと顔を出した。
「それにしても、凄い数の船が浮かんで居りますね」
風天丸は甲板に立ち周囲を見渡した。
「連合に属する国々に大船を借りて、この難波津に浮かべて居る。能くもまあ、これ程の数を揃えた物だ。同じ色を塗って仕舞えば、全て大王が建造したかの様に見える」
「そうだったのですか。儂はてっきり全てが倭の船だと思って居りました」
「其方がそう思うので有れば、大王の狙い通り。唐の方々も、間違い無く、そう思で有ろう」
国忍は頬を緩めた。
国忍達、半島との交易を行う蘇我の一族にとって、半島三国の平和的な安定と倭の半島に対する優位な立場の堅持は不可欠で有った。しかし、半島では三国間の争いが続いて居り、この年の文月、百済は新羅へと侵略し、倭と半島の交易は不安定で有った。国忍は、遣唐使の往来によって、唐が倭の大王を安東大将軍と認め、倭が半島の安定に直接手を下す事が出来る様に成る事を心から期待して居た。
「ちょっと飲んで行くか」
国忍は風天丸を誘った。
風天丸は、何時もの様に、無言で頷いた。
国忍と風天丸は、難波津の街の酒場に入った。
酒席では、殆ど一方的に国忍が喋って居た。これも何時もの事で有る。風天丸は傾聴した。そして、都度都度、頷いた。
国忍は、酒が入ると、何時も熱く語る。風天丸を俘囚郷に迎えに来た時の、世に出たいとの熱い滾りは、一切、衰えて居なかった。
今回、国忍は大きな取引に挑んだ。否、賭けに出たと言った方が正しやも知れぬ。
分家には許されて居ない、鉄の取引に手を出したのだ。
「なあ、風天丸。本家は狡いと思わぬか。鉄がこれ程迄に儲かるものだとは。吾等は唐物の商いで、少しずつ、齷齪と富を蓄えて居るのに、鉄はその何倍もの益が出る。本家と分家の富の差は広がるばかりだ。こんな事が有って良いのか」
赤い顔をした国忍は、盃を握った右拳を蓆の上に叩きつけた。
風天丸は、酒に濡れた国忍の右拳の上に、大きな左掌を被せると、
「国忍様。少々声が大きいかと。何処に蘇我本家の耳が有るのかは分かりませぬ」
と、小さく口を開いた。
国忍は、我に返り、周囲に視線を巡らすと、
「済まぬ、済まぬ。少々、熱く成り過ぎた」
と、盃に残った僅かな酒を飲み干した。
「国忍様。鍵の方は」
「分かって居る。何とかせねば」
と言うと、国忍は懐から袋を取り出して、口を開けると、中身を蓆の上へと振るい落とした。
「鍵。予備が有ったのですか」
「否、無い。錠の持ち主の証である鍵が、複数有るっては問題だ。鍵の数だけ錠の持ち主が現れて仕舞う何て事にも成り兼ねぬ。それなのに、鍵が五つも有る訳が無かろう」
「では、これは」
「似た物を作らせたのだ」
「使えるのですか」
「分からぬ。もし、この中に、錠に合う鍵が有ったとしても、あの新羅人の前で、この五つ全てを試す事など出来ぬ。怪し過ぎる」
「では、どの様に」
「風天丸。選んで呉れぬか」
「は」
「この中から一つ。其方の思う物を」
「何を申されます」
「其方は、これ迄、幾多の戦場で、選ぶ道を誤る事が無かった。吾はその選択に何度も命を救われた」
「戦場では賭けに出て居る訳では御座いませぬ。全ては兵法に基づく判断。儂にはこの鍵を選ぶ為の兵法を、一切、持ち合わせて居りませぬ」
「それでも構わぬ」
「荷が重過ぎます。誤れば、高向の家が傾くのですぞ」
「それでも良い」
「分かりました。では、二人で指を指し、先ずは二つに絞りましょう」
「分かった。では行くぞ」
国忍は、風天丸に眼を合わせると、それを外す事無く、少し伸び上がって顎を上げ、下げ様に、
「ほれ」
と声を発した。
二つの指は、蓆に転がる一つの鍵を差し示した。
国忍と風天丸は声を上げて笑い乍ら、
「これか」
「これですか」
と見詰め合って、頷いた。
鍵を見詰める瞳は四つでは無かった。
更に、四つの瞳が、事の終始を興味深く窺って居た。
黒雷丸と若雷丸で有る。




