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毛国王(the prolog version)  作者: 大浜屋左近
第三章 ~華乃都の貴人~
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第74話 サンコク

 形名は斐と共に、明日、遣唐使が到着する、難波の津を眺めて居た。


「多くの船が浮かんで居りますね」

 形名は眼を輝かせ、波間に浮かぶ船を指差すと、声に出して数え始めた。

「三十二艘。これ程迄に大きくて美しい船が、一つの津の中に会する何て、凄いですね」


「倭の威信が掛かって居るんじゃ。趣味の悪い、派手な船を、仰々しく海に浮かべて、その必死さが溢れ出て居る。明日はもっと騒がしう成るじゃろ」


 朱色に塗られた船は、丸で御堂が如く。それが三十二艘。津を所狭しと埋め尽くす。あたかも水上に大寺院が築かれたかの様な光景が広がって居た。


「必死さとは」


「大陸では、隋が滅んだ後、幾多の国が造り出され、中華の覇権を競い合って居ったのじゃ。倭は暫くそれを遠巻きに眺めて居った」


 隋が滅んだのは推古二十六年(618年)。旻が隋へ渡ってから十年の後で有った。度重なる隋の高句麗への遠征は、民を疲弊させ、民心は皇帝から遠退いた。皇帝、楊広は酒に溺れ、遂には自らを守る筈の近衛兵の将によって殺害された。楊広の死後、大陸には、とうきょてい定楊ていようりょうしんりょう等の国々が建った。その中で、唐の初代皇帝、李淵りえん高祖こうそ)と、その次男、李世民りせいみんは、次々と隣国を滅ぼし、唐による中華の統一を成し遂げ様として居た。しかし、唐の国内には不安が有った。李淵の長男で皇太子の李建成りけんせいが、武勇に優れる弟、李世民に脅威を感じ、不穏な動きを見せて居た。


「が、倭の大王には、半島に於いて、自らが、使持節しじせつ都督ととく・倭・百済くだら新羅しらぎ・任那・秦韓しんかん慕韓ぼかん・六国諸軍事・安東大将軍で有ると言う意識が強く、利権を維持する為に、小競り合いの続く半島には介入し続けて居った」


 使持節は占領地の軍政官、都督は軍隊の総括官の意。古来より、倭の大王には、自らが安東大将軍として治める六国は、倭と百済、新羅、任那、秦韓、慕韓の半島南部で有るとの自負が有った。しかし、実際には半島南部は百済と新羅が大半を二分し、倭が統治するのは小さな任那の倭人集落のみで有った。推古三十一年(623年)、その倭人集落が新羅によって収奪された。倭はその対応に揉めた挙句、穏健派の主張を採用し、新羅に使節を派遣する事で事態の収拾を図ろうとしたが、最終的には蘇我馬子が主戦派の意見を汲んで令を発し、数万の倭兵が海を渡った。その結果、穏健派と主戦派の間にはわだかまりが残ったが、倭は任那の倭人集落を、辛うじて、その支配下に置き続ける事が出来た。


「しかし、唐の動きは早かった。見る間に中華の覇権を手中に収めると、半島の情勢に干渉し出したのじゃ。それに応じる半島三国の動きも早かった。唐に使いを出し、各々が王として領する地の支配権を認めさせたのじゃ。結果、唐の半島に対する影響力は随分と増した」


 半島三国は、推古三十二年(624年)、各々の使節を、唐の初代皇帝、李淵に派遣し、高句麗は「上柱国遼東郡公高句麗王」に、百済は「帯方郡王百済王」に、新羅は「柱国楽浪郡公新羅王」に封じられた。倭の大王は、倭と半島南部の諸軍事を司る安東大将軍と言う立場では無く成った。推古三十四年(626年)、李世民は、玄武門の変で、自らの殺害計画を企てた李建成を射倒すと、父、李淵から譲位を受け、二代皇帝、太宗たいそうとして即位した。争いの続く高句麗、百済、新羅の三国は、事を優位に運ぼうと、唐二代皇帝に即位したばかりの李世民に、我先にと使節を送った。李世民は三国に対して、和睦を諭し、その後の半島での紛争解決に悉く関与した。


「その間、倭は何もしなかった。否、出来なかったのじゃ。臣達が、無い知恵を絞って、如何すれば良いのか、雁首揃えて、ただ議論に明け暮れた。そうこうして居る間に、唐は高句麗に圧力をかけ始めたのじゃ」


 推古三十六年(628年)、李世民は中華の西北部を領する梁を滅ぼし中華の統一を果たすと、東に目を向け、高句麗に対し支配域を示す地図を提出する様に求めた。支配域の地図は最高の軍事機密で有る。それを差し出すと言う事は、家の門の鍵を手渡すのに等しかった。


「それを知った倭は焦った。唐が東方侵出を開始したのではないかと。遣隋使を最後に派遣から十六年。半島の国々に随分遅れて、第一回の遣唐使を派遣したのじゃ。唐のご機嫌を伺う為に」


 舒明二年(630年)、倭は犬上御田鍬いぬがみのみたすきを唐へと遣わした。


「遣唐使の派遣中、唐は又しても高句麗に圧力を掛けた。唐は高句麗に使いを送り、高句麗が隋との戦いで殺害した、隋人の遺骸を高く積み上げて築いた塚を破壊し、その骨を全て返す様にと求めたのじゃ。高句麗にしてみれば、隋は何度も戦を仕掛けて来た、憎き敵。そいつ等の骸を如何しようが高句麗の勝手。高句麗は唐との戦をも覚悟し、倭にもその報が伝わった。戦と成れば、遣唐使の一行は如何成るのか。高句麗と友好関係を結ぶ倭は、唐の敵と成りはしないのかと、倭にも緊張が走った。そんな最中、遣唐使が帰って来るのじゃ。唐の使者を最大限の趣向で出迎え、倭の文化が、唐に伍する程の物で有る事を示さねば成らぬ。故に、必死じゃ」


 斐は目を細めて、西方の海を見遣った。

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