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毛国王(the prolog version)  作者: 大浜屋左近
第三章 ~華乃都の貴人~
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第71話 テンシ

「兄上様が。遣唐使に。申し訳御座いませぬが、兄上様のお名前をお聞かせ願えますか」

 珍しく鎌子が興味深気に尋ねた。


「兄か、兄の名はみんじゃ」


「彼の有名な旻殿ですか。」


「兄はそれ程迄に有名か」

 斐は天を仰いで声を上げて笑った。


 斐の兄、旻は、推古十六年(608年)、隋の答礼使、裴世清はいせいせいを帰国させる為に出向した遣隋使に同船して隋へと渡った。この遣隋使には特別な使命が有った。


 旻が隋へと渡る一年前(607年)、厩戸王は、隋の第二代皇帝、楊広ようこう煬帝ようだい)に、倭は夷狄戎蛮いてきじゅうばんと呼ばれる非文化的な部族集団ではなく、隋と同程度に文化の成熟した国で有ると認めさせる為に、小野妹子を大使として遣隋使を派遣した。この遣隋使は、日本の正史である日本書紀には、第一回目として記録されている。倭にとって、この遣隋使は、それ程迄に、意義深いもので有った。

 しかし、肩に力が入った。

 厩戸王は、英知の全てを注ぎ込んで記した国書を、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)」と書き出した。

 この国書に眼を通した楊広は甚く憤慨し、外交官僚に「蠻夷書有無禮者勿復以聞(蠻夷の書無禮なる者有り、復た以って聞するなかれ)」と告げた。

 楊広の不興を買ったのは「天子」と言う言葉で有った。天子は天の命を受けてこの世界の時空を支配する者。この世に唯一人、中華の心に君臨する皇帝にその名は冠せられる。朝貢国の一つに過ぎない倭連合王権の大王がその名を称する事など、許されるはずも無かった。

 何故に、学識豊かな厩戸王がその名を敢えて用いたのか。それは彼の誇りと危機感からで有った。

 日本書紀に記された第一回の遣隋使から遡る事七年(600年)、厩戸王は隋に特使を派遣した。この時の皇帝は初代、楊堅ようけん文帝ぶんてい)。楊堅は所司しょしを通じて特使に倭の生活文化を問うた。特使が、「俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟(俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未いまだ明けざる時に、出でてまつりごとを聴くに跏趺かふして坐す。日出ずれば、すなわち理務をとどめて、我が弟にゆだぬと云う)」と答えた。これを聞いた楊堅は、未成熟な倭の政の遣り様を我等に従って改むるべしと、呆れ果てた。

 帰国した特使よりこれを伝え聞いた厩戸王は、倭の国の有り様を変革する事を心に強く誓った。冠位十二階を制定し、十七条憲法を発布、朝礼を改め、隋に倣って律令を整えた。隋の仏教治国策を見習って、仏教の布教に努めた。暦も隋の太陰太陽暦を用いた。厩戸王は、楊堅の教えに従い、倭の政を全て隋風に改めたのだ。

 倭の隋化を成し遂げた厩戸王には自信が有った。中華の心に天の命を受けた皇帝が有る様に、倭には天照大神の命によりこの地に降り立った瓊瓊杵尊ににぎのみことの血脈が大王として有る。隋の皇帝を天子と言うならば、倭の大王も天子と言えると。

 厩戸王の自信も虚しく、楊広の反応は違った。倭の非礼を咎める国書をしたためると、最下位の秘書官、文林郎ぶんりんろうの裴世清を答礼使として遣わした。

 しかし、最下位の秘書官に託された隋の国書が倭に届く事は無かった。記録によると、国書は、隋からの帰路、百済を通過した際に、百済人によって略奪され、紛失したと言うのだ。が、これは方便で、この時の大使、小野妹子が意を決して破棄したと考えるのが妥当であろう。

 隋からの帰国船は難波津で足止めを喰らった。小野妹子から紛失した国書の内容を伝え聞いた厩戸王が、その対応にあぐねて居たのだ。

 待たされる事、一月半、裴世清等、答礼使の一行は飛鳥への入京が許された。

 裴世清は眼を見張った。厩戸王が中心となって飛鳥に築いた墾田宮おはりだのみやの風雅は、裴世清の想像を凌駕して居た。その墾田宮の朝廷で開かれた儀礼儀式によって、裴世清は、倭が他の朝貢国とは異なる、能く統治された、文化の高い国で有る事を理解した。


 裴世清は帰国の途に就いた。大使は再び小野妹子。そして、斐の兄、新漢人旻いまきあやひとみんと、倭漢直福因やまとのあたいふくいん奈羅訳語恵明ならのおさえみょう高向漢人玄理たかむくのあやひとげんり新漢人大圀いまきあやひとおおくに南淵漢人請安みなみぶちのあやひとしょうあん志賀漢人慧隱しがのあやひとえおん新漢人広済いまきあやひとこうさいの、八人の留学生を伴って。


 隋の都、大興城だいこうじょうに到着した裴世清は、皇帝、楊広に倭の様子を問われ、答えた。

「其人同於華夏 以爲夷州 疑不能明也(其の人華夏に同じ。以って夷州と爲すも、疑うらくは明らかにする能わざる也)」

 裴世清は、倭の人々を、隋(華夏)と同じ文化水準を持つ者と評したので有る。


 そして、楊広に倭からの国書が奏上された。


 楊広は国書に眼を通した。

「東天皇敬白西皇帝(東の天皇がつつしみて西の皇帝に白す)」

 国書の書き出しに、「天子」の文字は使われて居なかった。


 この後、倭が隋に従属する冊封国と成る事は無かった。厩戸王の方策により倭の独立は保たれたのだ。


 そして、旻の留学の最中、推古二十六年(618年)、隋は滅んだ。

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