第7話 ホロケウカムイ
崖下に突き落とされたピリカは、自らの状態を確認した。
(動く。大丈夫だ。あるのは痛みぐらいだ)
女達の館で、日々、戦闘術を身体に教え込まされたピリカにとって、痛みは動きを妨げるものではなかった。動けば、闘える。ピリカは毛皮に包まり身を固くして備えた。
ピリカは崖を駆ける獣の足音に気が付いた。
(狼。あの白狼が追ってきたのか)
白狼は獣の荒い息遣いで、毛皮に包まるピリカの周囲を嗅ぎ回った。
(来た)
ピリカは更に身体を固くした。
その瞬間、ピリカは何かが直接脳に話しかけてくる様な感覚がした。
「何だ」
毛皮の中からピリカは叫んだ。
(ルイの娘よ。こんな所におったのか)
「親父を、親父を知っておるのか」
(其方の誕生の折には一緒に吠えたのでな)
「お前はウタリモシリから遥々やって来たのか」
(この白狼は、この地の狼。単なる儂の眼に過ぎぬ)
「眼とは」
(儂はホロケウカムイ。山野を駆ける全ての狼の眼を通じて世界を観、彼等を動かすことができる)
「では何故、吾らを襲った」
(儂は普段から全ての狼に入り込んでおる訳ではない。全ての狼が見る景色の中から、気に入った世界に入り込んで,その世界を楽しんでおる。今回は、偶々、白狼が其方を襲う像が儂の脳の中に飛び込んで来た。ルイの娘だったが故、白狼に入り込んだという訳だ)
「そうだったのか」
(狼に入り込むのは疲れる。気が尽きる迄、そうは時が持たぬ。儂がこの白狼を崖の上に連れて行き、群れを束ねて引き上げるので、その間に、其方等は逃げよ)
ホロケウカムイが崖を駆け上がると、群れが形名を襲う最中であった。
形名はよく堪えていた。しかも、一匹の狼も殺してはいなかった。両刃の剣で傷もつけず、剣の平地で狼を払い続けていたのだ。
(器用な奴だ。が、戦士としては無駄な技術)
ホロケウカムイは呆れた。
(拙い。気が持たぬ)
白狼はホロケウカムイから獣へと戻った。
獣に戻った白狼は、形名を攻める群れに合流し、形名に牙を浴びせ掛けた。
(早い)
形名は、白狼の牙が形名の身体に届く寸前、剣で牙を受け止めた。
形名が白狼の牙を受け止めている最中、群れの狼は、無数の、牙を,爪を,形名の身体へ振り下ろした。
鉄壁の防御。狼の牙や爪が、形名の皮に届く事は無かったが、見る見る間に、形名を覆う布は無残な姿へと成り果てた。
(危ない)
形名は、白狼に噛み付かれたままの剣を、力強く、薙いだ。
形名に群がった狼達は、白狼共々、振り払われた。
(何なんだ。危ない。危なすぎる)
形名は本当に怯えていた。怖くて堪らないから、必死で守る。鉄壁の防御。これが形名の剣であった。
形名は狼達と間を取り、姿勢を整え、狼の群れに向き合った。
が、ピリカと異なり、形名は狼と眼を合わせては居無かった。
形名は漠然と狼を捉えた。
形名から狼の群れに向かって発せられる圧は無。狼達は、恐怖に竦む兎を襲うかの如く、形名を眺め自らを滾らせた。
白狼だけは、自らの牙を防がれた事で、形名の技量に気が付いたのであろうか、群れを抑し、自らが先に立って、形名を見据えた。
形名は目線を逸らしたまま、白狼と対峙した。
白狼は、左、右と,作為的に土埃を巻き上げ、形名との距離を詰めた。
形名は視線を動かす事無く、その場に立ち尽くし、白狼を迎えた。
白狼は真赤な大口を開いて形名に飛び掛かった。
形名は,後ろへ飛び退き、体を捌いて、牙を躱した。
白狼は着地と同時に、地を蹴り、二撃目の牙を形名に向けた。
形名は、右斜めに垂らした剣を振り上げ、牙に応じた。
白狼は剣に噛み付き、力の限り首を振るった。
(持っていかれる)
形名は束を力強く握りしめた。
剣は撓み、甲高い金属音と共に、二つになった。
形名は後ろに飛び退き、短くなった剣と体捌きで、三撃、四撃と繰り出される、白狼の牙を避け続けた。
その時、少し遠くで空を割く音が聞こえた、かと思うと、白狼に向けて光が走った。
音に反応した白狼が飛び退くと、光は、形名と白狼の間に突き刺さった。と形名が認識したのに少し遅れて、二本の鏃が白狼を貫いた。白狼は吼号と共に果てた。
闇夜から、馬に乗った猿が現れると、狼の群れは散った。
「こんな所までやって来たのか」
形名は俯いたまま何も発しなかった。
「ピリカは」
形名は猿の言葉で崖下へ消えたピリカを思い出し、川音のする闇へ眼を遣った。
「何だ。お前」
闇から血と泥に塗れたピリカの顔が現れた。




