第60話 エビジョウ
「吾、盗んで無いわよ。後で、補に銀鋌でも、鉄鋌でも、唐品屋が好きな物を届けさせるんだから」
飛鳥の時代、貨幣の登場は天智大王の近江朝まで待たねば成らぬ。それ以前は、物々交換による取引が為されて居り、庶民は米や塩や布などの生活必需品で、名族層は銀や鉄などの金属で、必要とする物を手に入れていた。また、普段から物々交換用の品を持ち歩いて居た訳では無く、商品を先に持ち帰り、後に纏めて物品の交換を行う、所謂「つけ」が、能く行われて居り、特に名族層では「つけ」で買う事が一般的であった。従って、与志古が言ってる事は、何時もの買い物と同じで有るとの主張だが、店側が持って行った物を承知して居らねば、それは盗みで有る。
「盗品かも知れぬと分かって居って、持って来たのは駄目だ。しかも、隠して。そして、国忍達はその簪を探して居ったので有ろう」
「分からない。これじゃ無いかも知れないじゃない」
「それにしても、腑に落ちぬ事がある。国忍達は、何故、東漢の衛士が現れた所であっさりと引き上げて行ったのだ。唐品屋の売り物が盗品ならば、それを衛士に訴えても良い所だ。与志古媛君は簪を懐に入れる所を気付かれたので有ろう。疑いが有るのであれば、衛士の番所で堂々と取り調べれば良い。盗人の疑いの有る女を捕まえて縛っても問題はないし、それを連れ帰ろうとした従兄を殴った所で大した罪には成らぬ。しかも、実際に簪が出てくれば、与志古媛君も、皆麿君も、ここには帰って来れぬ所であったぞ」
「与志古弟」
皆麿は与志古を睨んだ。
「唐物。盗品。高向。蘇我本家。交易。そうか、任那との交易か。国忍は任那との交易で何か仕出かしたのかも知れぬな」
都で扱われる唐物は、朝鮮半島の南端に点在した任那の倭人集落から齎された。この当時、筑紫島(九州)の北部から壱岐島、対馬を経て朝鮮半島に渡る航路は、海北道中と呼ばれ、海神族の宗像一族が支配して居た。蘇我氏は宗像一族と結び、海上に大船団を往来させる事で、任那からの大量輸送を可能とした。目的は唐物ではなく、大陸および半島で産み出される高品位の鉄鋌の輸入で有った。蘇我氏は、半島に起源を有する東漢の一族を利用して、半島に於ける鉄取り引きを手中に収めた。鉄の輸入は蘇我氏に莫大な富を齎し、この富に支えられた蘇我氏は倭で大いに繁栄した。本家が鉄の輸入で富を成す傍ら、高向を含む分家の一族は唐物の輸入で財を成して居た。
中臣氏の一族は神事、祭祀を司る公の職と、蘇我氏が齎した半島由来の鉄鋌を用いて、剣や鉾などの武具や、鍬先や鋤先などの農具を作製して財を成す私の職が有った。鉄の価格は、輸入を独占して居た蘇我の思うが儘。驚く程の高値を吹っ掛けて居た。鎌子の蘇我嫌いの一因はここにも有った。
「与志古媛君は以前からあの唐品屋を使って居ったのか」
「いえ、初めてよ。先月来た時には無かったから」
「先月。与志古弟は都には能く来て居るのか」
「そうよ。斑鳩では素敵な衣は手に入らないじゃない。里全体が学問、学問って感じで、何か、陰気なのよね。それに比べて、飛鳥は華やか。都を行き交う人も、そこに有る物も、全て、色鮮やかで、心が高鳴るの。そう、文化、ってやつに成るのかな」
「あの唐品屋は新しいのか。しかも盗品を扱って居る。それに、国忍も遣り過ぎだ。与志古媛君、その簪を能く見せて呉れぬか」
「え、何で」
「国忍が簪を欲しがるとは思えぬ。その簪に何か有るのではないかと思ってな」
与志古は鎌子に簪を手渡した。
簪の頭に繋がれた棒状の金属の一つは海老錠の鍵の様で有った。
「鍵が付いて居るのか」
「そう。それが可愛くって欲しく成ったのよ。素敵でしょ」
鎌子は首を傾げた。鎌子は鍵が可愛いなどと思った事は無く。与志古の感覚に全く付いて行く事が出来無かった。




