第57話 ゲンチョウ
――皆麿を置いて行く気か。
――いや、だって、皆麿君が行けって。
――このままじゃ、皆麿は殺られるぞ。
――大丈夫だよ。鎌子君も、皆麿君はこう言う揉め事には慣れて居るって言ってたし。
――目の前の現実を直視しろ。どう見たって助けが必要だろ。
――でも、僕が行ったって。
――何時だって、そうだな。
――違う。皆麿君の迷惑に成るのが嫌なんだ。
――迷惑。何が迷惑なんだ。争いが怖くて逃げて居るだけじゃないか。
――逃げるんじゃない。皆麿君に頼まれた通りにしているんだ。
「うわっ」
突如轟いた雷鳴に驚いた形名は、一瞬にして我に返った。
周囲は見る間に暗くなり、大粒の雨が、一つ、二つと地を打つと、雨脚は一気に強くなった。
雨が都に集う民の衣を濡らし、唐品屋で行われていた残酷な見世物を興奮気味に眺めていた猥雑な野次馬達は、雨を嫌って疾く疾くと散った。
形名の前に開かれた視野の先には、自らが流した反吐の上で身を丸めた皆麿を、雷光が照らし出した。
「皆麿君」
形名は皆麿に向かって駆けた。先程の迷いなど無かったかの様な、大脳を介さぬ反射的な行動であった。
形名は皆麿に覆い被さった。
その刹那、形名の身体を複数の衝撃が貫いた。
形名は咄嗟に頭を抱え、打たれた部分の筋を瞬時に固めた。
(良い反応だ)
えっ。
(予が動かさずとも、身体の方が勝手に反応する様に成ったみたいだな)
「何だよ」
形名は叫んだ。
「この状況で何だよとは、随分威勢が良いな」
与志古に繋がる縄を持った男が言った。
「貴方が皆麿君に酷い事をしたのですね」
皆麿の口から漏れた液で、男の履物が汚れて居る事に気が付いた形名が問うた。
「おい、待ってくれ。酷い事をして呉れたのは此奴の方だ」
男の白い袴にまで、吐物は散って居た。
「謝りに来て、こちらの衣を汚すとは如何言う了見だ」
国忍が奥から言った。
「それは貴方達の所為じゃないですか」
形名が頭を上げて応じると、そこへ向けて蹴撃が襲った。が、形名は片腕でそれを受けた。
「此奴。生意気な」
形名は再び男達による暴力に晒され、身を固めた。
(なぁ、御主の身体を予に預けよ)
何。誰なんだ。形名は混乱した。
すると、そこへ、
「坊ちゃま。坊ちゃま」
と補が息を切らして駆けて来た。
「国忍殿。これ以上は御止め下され。蘇我の家名を汚す事と成ります」
補が連れて来た都を守る衛士が諭した。衛士は東漢の者。東漢の一族は蘇我の番犬で有ったが、大王の番犬も務めた。
「分かった。帰るぞ」
国忍はあっさり引き下がった。栄華を極めた蘇我の一族で有っても、都における私闘は御法度であった。しかも、高向一族は蘇我の亜流。本流の威を借りた若者が、大王の治める都の衛士に逆らえば、本家からの御咎めは必至であった。
「坊ちゃま。坊ちゃま。大丈夫ですか」
「重い。重いよ、形名君」
「ごめん」
形名はそっと起き上がった。
「ねぇ、形名君。どうして途中で居なくなったの」
補が猿轡を外すと、与志古は形名を睨み付けた。
「与志古弟。それは吾の方から帰る様にと、形名君に頼んだのだ」
「皆麿兄が頼んだからって、吾がこんな目に遭っているのに、置いて行ける。何の為の大きな身体よ」
「それよりも、与志古弟。如何して飛鳥に参ったのだ」
「狡いじゃない兄達だけで楽しんで。て言うか、臭いんだけど、御酒臭い。皆麿兄、本当、御酒臭い。何してたの」
「鎌子君と形名君と、三人で、将来の話しをして居ったのだ」
「あ、そうだ。鎌子君は。吾がこんな目に遭ってるの知ってるんでしょ」
「否、ここまでの状態に成るとは思いも寄らなんだ。元々、吾一人で来る積りで有ったのだが、途中から形名君が勝手に付いて来てしまったのだ。鎌子君は吾等が直ぐに帰って来るものと思って待って居る」
「そうなの。それじゃあ、早く館に帰って上げないとね。行きましょ、補」
補が三人の馬を連れて来ると、皆麿は慌ただしく馬に跨り、
「では、先に館に向かう。形名君、行こう」
と形名を促した。
「え。先に行っちゃうの」
「与志古弟は、補に手綱を引いて貰わねば馬に乗れぬであろう。緩りと来ればよい」
「え、如何して。段々暗くなって来たし、吾がまた襲われても良いの」
皆麿は言葉を返す事が出来なかった。都の外れに在る車持の館へ向う道は、日が暮れると真っ暗になり、夜盗が出ても奇怪しくは無かった。
何事も無かったかの様に、雨はすっかりと上がり、山の中へと沈み行く大きな夕日が空を赤く染めた。




