第56話 カラフウ
部屋に入って来た男の名は補。助の双子の兄で有った。
「坊ちゃま。与志古媛様が街の唐品屋で男共に絡まれて居りまして」
「如何して与志古弟が都に来て居るのだ。と言うか、補は如何して与志古弟を置き去りにして来たのだ」
呂律の儘成らない皆麿が大声で問うた。
「御相手が悪く、吾では何とも成りませぬ」
「相手は」
「高向の御子息様で」
「高向臣。蘇我の一族か。厄介だな」
皆麿は鎌子へと眼を向けた。が、鎌子は土師を自らに引き寄せ、首元に顔を埋めて、知らぬ振りを決め込んで居た。
「御子息、と言う事は、国忍君か。鎌子君が関わって、蘇我の一族と面倒を起こされては、堪ったものではない。吾が暫し参って話しを付けて来よう。補、案内して呉れ」
「宜しくお願いします。坊ちゃま」
赤ら顔の皆麿は、千鳥足で部屋を出た。
「ねぇ、鎌子君は行かないの」
「皆麿君が言って居った様に、蘇我嫌いの吾が行っても問題が広がるやも知れぬ。一方、商売上手の皆麿君は、こう言う揉め事を纏めるのには慣れて居る。信じて待とう」
「うん。でも、やっぱり、吾は行って来るよ」
形名も部屋を出た。
「あら。残されちゃったわね」
左夫流が形名の後姿を眼で追い乍ら言った。
「左夫流殿もこちらへ」
鎌子は盃を眼の高さまで上げると、涼やかに微笑んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
「待って下さいよ、皆麿君」
家人の補は、馬には乗れぬ身分で有ったが故、皆麿の前を走って道を案内して居た。その為、形名を乗せた鈍足馬でも皆麿に追い付く事が出来た。
「如何した、形名君。追って来たのか」
「はい」
「折角、遊行女婦を呼んだのだ。楽しんで居れば良かったものを」
「何となく苦手で」
「変わった奴だなぁ。あの様に見事な舞いや歌など、滅多に観られるものでは無いぞ」
「はい。それは本当に見事と思いました。ただ、女性が隣に居ると、どうも御酒が進まなくて」
「やっぱり変わった奴だな。あれ程美しい女達はそうは居らぬぞ。まぁ、良い。与志古弟を迎えに行こう」
「坊ちゃま。そこを曲がって、直ぐそこです」
息も切れ切れと成って走る補が告げた。
「あそこか」
角を曲がると戸外に人の群がる唐風の建物が目に入った。
「ちょっと退いて下さらぬか」
店前に着くと、皆麿が群がる町衆に声を掛けた。
「居た、居た。居ました」
町衆から頭一つ飛び出した形名が、店の中の与志古を見付けた。
「酷い事をするなぁ。与志古弟が何をした。縄を解いては呉れぬか」
与志子は後ろ手に縛られ、更に、猿轡まで噛まされて居た。
「随分と暴れ回る口五月蠅い女で有ったが故、大人しくして頂いた迄だ」
涙と鼻汁と土で汚れた与志古の左頬は赤く腫れ上っていた。随分と痛めつけられたのか、言葉通り、すっかり大人しく成って居た。
「其方が国忍君か」
皆麿が与志古を縛り上げた縄を持つ男に聞くと、
「国忍は吾だ」
と、奥から薄紫の絹衣を纏った男が出て来た。
「御頼み申す。与志古弟を返しては下さらぬか」
皆麿は国忍に向かって頭を下げた。
「道奥を追い出された車売が、倭の臣、しかも、蘇我の一族の者に対して、対等に物を申して居るのか」
国忍は笑った。毛野は道奥ではなく、東国の一国で有ったが、当時、東国とは三野より東を指し、倭の民からすると、東国の東端と道奥の区別など如何でも良かった。しかし、中央豪族には十分な教養があり、当然、それを知った上での国忍の蔑みで有った。
「では、如何すれば」
「磕頭の礼を持って許しを乞うのが、然るべきであろう」
縄を持つ男が挟んだ。
「それは何でも遣り過ぎでは」
形名が思わず前に出た。
「何だ御主。随分な大漢だなぁ。車持の護衛か」
国忍が言うと、形名の前に三人の男が立ちはだかった。
「ちょっと、ちょっと、待って下され。この者は友だ。車持の家とは関係有りませぬ」
皆麿が、形名と三人の間に割って入った。
「形名君。先に帰って、鎌子君に頼んで、皆を帰して頂けませんか」
「えっ、でも」
「お願いです。この様子じゃあ、与志古弟を館に連れて行かねば成らぬ。それ故、如何か宜しくお頼みします」
皆麿は申し訳なさそうに、形名に頭を下げた。
「分かりました」
と言うと、形名は町衆を掻き分け店を離れた。
「誠に申し訳御座いません」
形名は背中越しに皆麿の謝罪を聴いた。
すると、何やら物を打ち付ける様な鈍い音が立て続けに響き、
「痛てぇよぉ」
と言う、皆麿の叫び声に続けて、
「やうぇええぇ」
と与志古の泣き声が形名の耳に届いた。
「おい、御主。酔って居るのか。随分と顔が赤いなぁ」
再び鈍い音が形名に届いた。
「汚いねぇ。こいつ吐きやがった。しかも酒臭せぇ。景気付けに酒でも飲んで来やがったのか」
形名の後ろで男達の笑い声が木霊した。




