第53話 ヤマトノアヤ
「所で皆麿君。仕事は何処で」
次第に飛鳥風の優美な建築物がちらほらと見え始めた所で、鎌子が尋ねた。
「東漢だ」
「蘇我の番犬か」
鎌子は鼻で笑い乍ら、馬鹿にした口調で言った。
「今は蘇我の世だ。蘇我の家に関わらぬ仕事など有るのか」
「何を馬鹿な。この世は大王の物ぞ。あの意地汚い家の物などでは無い」
「そうは言っても、中臣の家も蘇我に従って居るで有ろう」
「御指摘の通り。嘆かわしい。伯父上殿には、殆々、嫌気が差しますよ」
鎌子は雲一つない青一色の天を仰いだ。
「もう。又始まった。止めにしましょう」
繰り返しに成るが、鎌子は冷静な男であった。大抵の事には無関心を装い、法輪寺の講堂で、学生達が仏道や倭の政治、大陸や半島との外交問題に熱を帯びても、斜め上から彼等を餓鬼扱いし、真艫に相手にする事など無かった。今も淡々と蔑んだ言葉を吐いては居るが、蘇我の事となると無関心を貫けぬ様子であった。
三人は皆麿の案内で馬を進め東漢の館に辿り着いた。
渡来系氏族には漢人と秦人が有った。漢人は百済に、秦人は新羅に由来を持つと伝わって来た。古よりこの国に住む漢人は、川内国に支配地を持つ西漢と、倭に支配地を持つ東漢とに分かれて住んだ。そして、日々、彼の地より倭に渡り来る新しい渡来人は、新漢人と呼ばれた。因みに、斐と羅我は、新漢人で有った。
東漢は、飛鳥の都の南西に位置する、飛鳥から木乃国へと抜ける山間の小さな平地を治めて居た。蘇我蝦夷にとって、この小さな平地は、軍事戦略上、重要であった。蝦夷は、元葛城の支配地を大王より譲り受けた時点で、東と南を山で囲われた飛鳥の都の北と西を自らの支配地で取り囲んで居り、木乃国へと抜けるこの小さな平地を手に入れる事で、他豪族による飛鳥の都への軍事侵攻を妨げる防衛線を築く事を目論んでいた。しかし、東漢の支配地を戦で奪えば、蘇我は鉄の輸入を司る渡来系氏族の全てを敵に回す事と成る。蝦夷は東漢と軍事協定を結び、東漢に蘇我の護衛を担って貰う事で、防衛線を完成させた。
鎌子の言った「蘇我の番犬」とは、この様な事情に依る物で有った。
「車持の者だが、荷車の件で参った」
皆麿が手馴れた様子で東漢の門を守る衛兵に伝えた所、
「暫く、お待ちを」
と衛兵は言葉を残し、館の中へと入って行った。
少し経つと、衛兵が戻って来た。
「それでは中へお入り下さい。馬はこちらで預からせで頂きます」
「では、宜しく頼んだ」
と皆麿が手綱を衛兵に渡して門を潜ると、形名と鎌子もそれに倣った。
広庭の奥に茂る木々は良く手入れされ、人工的に作られた池には、赤、黄、緑の秋の葉色が鮮やかに映し出された。地に敷き詰められた白玉石の中には、点々と巨石が配置されて居た。唐より齎された神仙蓬莱思想が反映されて居るのだそうだ。
形名が此処彼処に視線を巡らし、周囲を興味深そうに眺めながら歩いて居ると、皆麿が二人を置いて、突如、館の方へと駆けて行った。
「形名君。観て下され。あの濃紫の衣」
「ほんと、美しい衣ですね」
「冠位で衣の色が定められて居ると言うのに、蘇我の覚えが良いからと、そんな事は御構い無しですかね。直の姓の者が、大王の定めた最も高貴な色を帯びるなど、嘆かわしい。それもこれも、全て、蘇我の所為」
形名はそれ程気にしては居なかったが、飛鳥の時代に於いて、衣の色は社会秩序を守る上で、非常に重要であった。最上の紫の衣を纏う事が出来たのは、臣、連、公の姓を与えられた家の者。そして、紫の衣にも上下が有り、上が濃紫、下が薄紫で有った。公の場での濃紫を許されたのは蘇我の家の者と大徳の冠位を授かった者。歴史に残る大徳の位を得た者は小野妹子と大伴咋子のみで有ったから、事実上、濃紫は蘇我の家の者に限られて居た。中臣は連、毛野と車持は公の姓を与えられた家で有ったので、宗家の主は薄紫の衣を帯びて大王の前に列した。一方、渡来系氏族が冠した最高位は、秦河勝が死後に賜った小徳。生前は大仁で有ったと言うから、濃青が渡来系氏族に許された最高の衣で有った。直の東漢の家では、薄青か濃赤の衣が関の山で有った。
「弓束殿。何と美しい衣です事」
皆麿にとっては衣の色など如何でも良かった。
「蝦夷様に賜ってな。公の場で纏う事は許されぬので、館の中でのみ、内緒で羽織って居るのだ」
「羨ましい。所で荷車は」
「その事だが、この衣の御返しに、蝦夷様に御贈りする物だ。少し値が張っても構わぬ。大王に納める物と違わぬ装飾を施して下され。吾が使うことは許されませぬが、蝦夷様の物と成れば、何の文句も付きませぬ」
濃紫の衣が許された蘇我の家は、大王家とは祖父や父と言った縁戚関係に有り、大王から冠位を授かる家では無く、大王と共に臣下に冠位を授ける側の家で有った。
「それでは大王様に納める物と違わぬ装飾で、大きさを、少し、小さく御作り致しましょう」
大王の乗輿を作る車持の家にしか許されぬ装飾技術があった。言わば専売特許。大王から咎を受けぬ程度に絶妙で、高貴な装飾を施す事で、車持の車は豪族層の心を射止め、家は富を成した。




