第50話 ユメノアト
翠は、形名と斐、額田一族の兵団を引き連れて、青野に入った。
青野へ向かう途中、形名は眠り続けて居た。
青野に着いても、形名は眠り続けて居た。碧に散々に悪戯をされても、形名は眼を開かなかった。
本巣に戻り、兎と亀が幾ら呼び掛けても、形名は寝息を立てた儘であった。
形名は夢の中に居た。男女が泥の海の中から陸地を作り上げるのを観た。子を産んだ母が死ぬのを観た。腐敗した妻の骸を抱き締め泣き崩れる夫を観た。姉と弟の壮絶な領国争いを観た。兄達による弟への執拗な虐めを観た。父親に日々暴力を振るわれる子供を観た。耕した農地を一族に奪われる農夫を観た。
三日三晩眠り続けた形名は、涙を溢して眼を覚ました。
「形名が眼を開けたぞ」
兎と共に形名を見守っていた亀が叫んだ。
形名の元に、翠と碧、斐が集まって来た。蒼と羅我は、六騎と舟来彦の兵団と共に身毛で各務野の反撃に備えて居た。
二日後、形名は斐の案内で倭へ向かった。
兎と亀は、身毛と各務野が争う東山道を避け、北陸道の古志を巡って毛野へと帰った。
この後、青野は三野前国と成り真若が、本巣は本巣国と成り翠が、身毛は牟義都国と成り蒼が、それぞれを治める事と成った。また、大野は額田国、各務野は三野後国と成り、三野は小国が乱立する状態が続いた。
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形名は、和気の計らいで、大王の住まう飛鳥の北西に位置する、斑鳩の法輪寺で学ぶ事と成って居た。
法輪寺は、厩戸王の子、山背大兄王が父の病気平癒を祈願する為に、推古三十年に建立した寺院であったが、祈りも虚しく、厩戸王はその年の内に亡くなった。形名にとっても、その年は人生を左右する程に重大で、父、池邉が亡くなり毛野の主と成った。
建立されてから五年の新しい寺院には、故厩戸王の衆望も相俟って、各地を治める王や豪族の子弟達が集まっていた。
法輪寺では、厩戸王により著された、法華義疏、勝鬘経義疏、維摩経義疏の三経義疏を用いて、法華経、勝鬘経、維摩経が教授され、寺に集う若人は、大国唐の当時最新の学問であった仏教を学んだ。当然、教養を身に付けるのみならず、各地の王、豪族層の人脈を育む事も、ここに集う大きな意義であった。
形名は、斑鳩に到着してから、ゆっくりと旅の疲れを癒し、三日後の朝、法輪寺へと赴いた。
「随分御緩りと旅を為さった御様子で」
法輪寺の門主が形名に話し掛けた。
「はい。科野の坂から三野を抜けるのに色々と大変な事に巻き込まれまして」
「東山道には怪物が御座すと聞くが、四方や」
「怪物。ですか。賊に襲われたり、戦に巻き込まれたりと、ここに無事に到着出来たのが嘘の様です」
「それは、それは、大変な旅でしたな。では、講堂に案内させましょう」
門主が声を上げると、若僧が部屋に入った。
「はい、大僧様。何か」
「こちらの、毛野の主殿で有られる形名殿を、講堂へ案内して遣っては呉れぬか」
「形名殿。ではこちらへ」
形名と若僧は部屋を出て、鮮やかな朱に彩られた回廊を講堂へと向かった。
「凄いですね」
形名は漏らした。毛野には無い、荘厳な寺院建築に形名は圧倒されて居た。
若僧は笑顔を返し、形名を講堂へと案内した。
「こちらです。形名殿」
形名が講堂の中に眼を遣ると、中には大勢の若者が、各々、書物を前にして居た。
「講義は朝昼一回ずつ。後は、皆様、各々、太子様が御記しに成った三経義疏やその原典を御写しに成ったり、御読みに成って過ごして居ります」
「はい」
形名は講堂に入ろうとしたが、思わず躊躇った。中に居る若者の着る衣服は鮮やかで、色取り取りの布地に、繊細な刺繍が施されて居た。一方、毛野で誂えた形名の一張羅は、布地こそ一級の絹製では有ったが、淡黄色の簡素な物で有った。
「あれ、形名様では御座いませぬか」
外でたじろぐ形名に、講堂の中から声が掛かった。
形名は、声の方へと眼を向けたが、知った顔は無かった。
「形名様。こちらへ」
声の主は手招きをした。
形名が、講堂に入り、声の主の元に寄ると、
「形名様。吾は以前、父に伴い和気様の元へ荷車を納めに伺った折に、館内に居られる形名様を中坪からお見受けした事が有りましたが、形名様は吾の事はご存知無いかと拝察致します。吾は車持の皆麿と申します」
と声の主が名乗った。
「皆麿殿。形名様は御止め下され」
「いえ、形名様は毛野の主。私も毛野の者故、主様に対して、様以外の呼び方など御座いません」
「ここは毛野では有りません。しかも、ここでは私は新来者」
と二人が話をして居ると、
「皆麿君、何を揉めて居る」
と、見るからに高貴な出で立ちの若者が二人に近寄った。
「おう、鎌子君。こちらは毛野の主、形名様に有らせられる」
「初めまして、形名様。吾の名は中臣の鎌子。東国の東端、那珂国香島の出身です」
「鎌子殿も、形名様は御止め下され。その、皆さんの呼んでいる。のきみとは何なのですか」
「君の事ですか。ここでは、お互いの事を君を付けて呼んで居ります」
鎌子が答えた。
「では、私も、様は無しで、その、君と言うのを付けて呼んで下さい」
「分かりました。形名君」
鎌子が呼ぶと、
「皆麿殿も」
と形名が促した。
「形名君。私も、殿では無く、皆麿君で宜しくお頼みします」
「あっ」
と、形名が口を手で塞ぐと、皆麿と鎌子は笑い出した。




