第47話 ネイキ
翠と形名は、額田一族の百の歩兵団を率いて青野へ侵攻する途中、額田一族の根拠地である大野に陣を張った。
「葺よ。額田殿の到着は何時頃に成りそうなのだ」
「もう暫くかと。昨日の内に額田の主様には使者を送って有り、本日、本巣を発つ折にも早馬を走らせて居ります」
翠の問いに葺が跪いて答えた。
「額田殿と御会いするのは何年振りかのう。我の初冠の折に御挨拶をして以来だ」
倭連合の中には、各国の王が、その地位に応じた冠を身に着ける慣わしがあった。王家の子供達は、政治への参加が許される歳に成ると、髪を改め、冠を被った。初めて冠を頭に乗せる儀式が初冠で、隣国の王達を集めた盛大な式典が催され、後継者候補の正式な御披露目が行われた。
「形名殿は初冠は済ませておいでで」
「はい」
形名の初冠は、父親の喪が明けた十二の時であった。飛鳥時代、成人儀礼の歳には幅があり、大体、十一から十六の頃に、各国の実情に合わせて初冠が行われていた。
翠が形名に昔話をして居ると、遠くから、馬の馳せる音が響いた。
「額田様ですかね」
他国の王に会うことに慣れていない形名は、緊張した面持ちで翠に尋ねた。
「その様だ。それにしても、大層な兵数を引き連れて居るな」
蹄の音が陣に近付くに連れて、その頭数が数十を越えている事が明らかと成った。
「葺。如何なる事だ」
翠の問いに葺は無言であった。
「葺。額田殿から何か伺っては居らぬのか」
翠は跪いた儘、頭を上げる事は無かった。
すると、陣幕の外より聞こえる音から、翠には近付いた馬群が陣幕の周りを取り囲んだ事が感じ取られた。
「葺」
「坊ちゃま、ここまでで御座います」
葺は頭を上げ、翠の眼の奥を確りと見据えた。
「何なのだ」
翠は剣に手を掛けた。
「坊ちゃま。蒼坊ちゃまならば未だしも、翠坊ちゃまの剣技では、ここから逃げ去るだけでも罷り成りませぬ」
翠には剣の才が無かった。翠の父、真若にも剣の才は無かった。そして、真若の兄、三野国王の宇斯にも剣の才は無かった。それは、多分、血の所為であった。三野の一族には、日本武尊命(小碓命)の兄、大碓命の血が流れて居た。猛々しい日本武尊命とは異なり、大碓命は戦を嫌い、父、景行大王から東征将軍の地位を剥奪され、三野の地に封じられてしまった。そして有ろう事か、父に献上するはずであったその地の王の娘との間に子を成し、その後、日本武尊命に命を奪われた。この大碓命の血が、翠の剣の才の邪魔をして居たのやも知れぬ。
「分かった」
翠は剣に掛けた手を外した。
すると、陣幕が破られ、百の歩兵と数十の騎兵が、翠と形名を取り囲んだ。
「坊ちゃま、こちらへ」
葺が翠を群集の中へ連れて行こうとすると、
「わーっ」
と、形名が、突如、剣を抜いて葺に切りかかった。
葺は驚いて、声を上げて後ろに飛び退き、形名の剣を躱した。
「形名殿」
翠は形名を抑え様としたが、形名は項垂れて、眼を閉じ、剣の先を群集に向けた。
「形名殿」
翠が再び声を掛けたが、形名が剣を納める動きを見せる事は無かった。
形名は、ゆらゆらと揺れていた。眼を瞑って揺れる形名の拍子は寝息の様であった。
「この餓鬼が」
群集の中から顔に無数の傷を帯びた大柄の兵が飛び出し、形名に斬り付けた。
形名は眼を閉じた儘、兵の斬撃を受け流した。
「形名殿」
翠が怒鳴ったが、形名の耳には届いて居ない様子であった。
繰り返される大柄な兵の力強い斬撃を形名は受け続けた。
「何だ、この餓鬼。無茶苦茶、出来るやないか。俺の剣をここ迄受け流されたのは初めてや。よう薄眼開けて戦えんな。まぁええ。兎に角、皆で二人を取り押さえろ」
大柄の兵の声で、翠は直ぐに取り押さえられた。が、形名は抗った。剣を振って、複数の兵との間で戦闘を繰り広げた。しかし、それも多勢に無勢。多くの兵に、手足を掴まれ、形名は地に押さえ付けられた。
剣を取り上げられた形名は、動かなくなった。
「形名殿」
翠が大声で呼びかけたが、大勢の兵に押さえ付けられた形名からは返事が無かった。
「おい、額田の者共も冷静になれ。東国の大国、毛野と一戦交える積りなのか。そんな事に成れば、倭が動くぞ」
翠の言葉に、馬乗りと成って居た兵達が、形名の元から離れた。
地に伏した形名は微動だにしなかった。
「形名殿」
翠は取り押さえる兵の腕を振り解き、形名へと駆け寄った。
「形名殿」
地に伏せられた形名の顔に、自らの顔を近づけると、翠は声を上げて笑った。
「この男。寝息を立てて寝て居るぞ」




