第40話 シンライ
「坊ちゃま」
と白髪の翁が、翠の部屋に急ぎ入った。
「坊ちゃまは止めろと言って居るで有ろう。葺」
「失礼をば致しました。本巣殿」
「で、要件は何だ」
「はい。身毛奪還軍が藍見川を越え、身毛の館前に陣取ったとの事」
舟来彦の活躍により、奪還軍が各務野の築いた柵を打ち破り、館に攻め入らんとして居る。との報は、数刻の後には本巣に居る翠の元へと届けられた。
翠の前には、形名と斐が座して居た。
「奪還軍は兵を五十程失ったとの話ですが、順調に身毛を制して居るとの事です」
葺が続けた。
「菟道殿と甕依殿は無事ですか」
形名が身を乗り出して葺に尋ねた。
「その報は有りませぬ」
葺は短く答えた。
「もし彼等に何か有れば、最優先事項として伝えられるはずじゃ。安心しなされ」
と、斐が不安で今にも泣き出しそうな形名を気遣った。
「我もそう思う。我が国の情報伝達には、漏れも無ければ、無駄も無い」
翠も加えた。
「はい」
葺は部屋を去った。
「所で形名殿。貴殿は戦が嫌いか」
「嫌いと言うか、怖いです」
「怖いか。我も戦は怖い。怖くて堪らぬ」
「そうなのですか。でも、国を束ねる主は、争いが起これば、戦場に向かわねば成らないのですよね」
「そうだ。それが主の役目だ」
「役目でも怖いのですか」
「怖い。出来れば、戦になど行きたくは無い。命を失うやも知れぬ。しかし、命よりも失いたくないものがある」
「命よりも失いたくないものなど、有るのですか」
「ある。信頼だ。国を作り上げる仲間との信頼。国の主が、主として存在出来る、唯一つの理由は、一緒にこの国を作り上げている仲間が主を信じているからだ。だから、主は命を懸けて仲間との信頼を守らなければ成らない」
「信頼を守るとは」
「簡単に言えば、仲間の命を守る事だ。仲間の命を守る為には、仲間の暮らしを守らねば成らぬ。では、形名殿に問う。我等の暮らしを守る源は何だ」
「えっ」
考えた事も無い問いに、形名は戸惑った。
「其方は毛野の主であろう。民、即ち、其方の国の仲間の暮らしについて、主は常に心を巡らして於かねば成らぬ。民が、日々、口にする物は何だ」
「米です」
「そうだ、我等は稲を成し、米を食べて生きて居る。母が子を産み、家族が増えれば、より多くの米が必要となる。より多くの稲を成すには、より多くの田が必要だ。我等の祖先は、荒地を耕し田を作り、家族を増やし、仲間を増やして、国を成して来た。だから、主の一つ目の仕事は、仲間と共に荒地を耕し、仲間が暮らして行ける様に、田を整えて遣る事だ。我と蒼とで、本巣と身毛を拓いて来たのは、仲間の暮らしの為。これが出来ねば、主としての信頼は得られ無い」
「はい」
「次に、拓いた土地、産み出した稲は、守らねば成らぬ。成らず者は必ず居る。仲間の耕した土地が、成らず者に奪われ、仲間の暮らしが、命が、危機に瀕して居るのに、主がそれを守って遣らねば、仲間からの信頼は得られ無い。今、我等が仲間と共に、血と汗を流して拓いて来た身毛の地は、各務野に奪われて居る。身毛の主である蒼が、身毛の地を奪い返さねば、蒼は仲間の信頼を失い、身毛の主では居られ無く成る。だから、蒼は命を懸けて身毛の奪還に向かった」
「はい」
翠が形名に話をして居る所で、
「坊ちゃま」
と葺が再び部屋へ入ってきた。
「先程も言ったであろう。で、何だ」
「碧お嬢様が」
「碧がどうした」
「部屋に居りませぬ」
「どう言う事だ」
「連れ去られた様子で」
「何」
「斐殿が碧お嬢様を御連れして居るのを見た、と申す者が居ります」
「斐殿。如何言う事だ」
翠の問いに斐は何も答えなかった。
「斐を捕らえよ」
翠が命を下すと、部屋に衛士が雪崩込み、形名の面前で斐に縄をかけ、部屋の外へと連れ出した。
形名は斐を眼で追った。




