第4話 ヌケアナ
その夜、形名は動いた。
形名が寝屋を抜け出し屋外を歩いていると、
「形名様、どうなされました」
館を警護する兵が尋ねた。
「厠だ」
「形名様、厠とは随分方向が違いますな。童の様に寝ぼけておられますか」
「いや」
形名が惑うと、
「好きですな。形名様も。夜這うのですか」
兵は下品な面で形名を見た。
形名は顔を赤らめて
「いや」
と、半ば言いかけたのだが、
「そうだ。奪う。蝦夷の姫を」
と返した。
「形名様も御見掛けに依りませぬなぁ。蝦夷を抱かれた事は御有りですか。あれは良いですぞ。野を駆けますので能く締まって居ります」
兵は経験有り気に話した。
「もうよい」
形名は下劣な言葉を切った。
「あの姫は何処だ。何処に居る。実は、囚われて居る館を知らぬ。案内してくれ」
「へい。あの奥の藁葺きの小屋に」
「見張りはおるのか」
「へい」
「恥ずかしいので、事を済ませるまで、外して欲しいのだが」
「しかし、和気様の許しが」
「少しの間だ。頼む。そなたにも分かるであろう。これで何とか」
形名は兵に、腰の小袋から取り出した黄金の粒を、いくつか手渡した。
「へい」
と、兵が見張りの元へ近寄って、耳打ちし、金の粒を握らせると、見張りは姿を消した。
兵は、戻って来ると形名に近付き、眼と手で合図をして、促した。
「分かった」
形名は兵にもういくつかの金の粒を掴ませた。
「一刻ですぞ」
「分かった」
兵も姿を消した。
形名には、未だ、一度の経験も無かった。
が、年頃である。観た事は何度もあった。
館に仕える兵達が、酒売りの娘を兵舎へ誘い込み、事を為しているのを、何度も除き観た。
しかし、実戦など、有ろうはずも無かった。
形名は、日々、和気による主教育で館に籠りっきりであった。仕える女官はいたが、形名とは二回り以上離れた厳格な女性で、いつも口煩く、形名は女は怖いとすら思っていた。
「ねぇ、ピリカ。開けるよ」
返事はなかった。
「ねぇ、ピリカ」
形名は耳を澄ませたが、無音のままであった。
「入るよ」
形名は藁蓆の戸を開け、小屋の中へ踏み入った。
(寝ているのか)
小屋の中央で、ピリカは大の字になって寝息を立てていた。
(可愛いなぁ)
暗闇の中、形名はピリカに顔を近付けた。
(観たい。もう暫くの間、観ていたい)
形名の鼓動は激しくなった。
が、形名は意を決し、ピリカの頬を両掌で挟むと、
「ねぇ、起きて。行くよ」
と小さく声を掛け、両掌を揺すった。
ピリカは目を閉じたままであった。
そこで、形名はピリカの耳元に再び、
「ねぇ、起きて」
と、先程より少しだけ強く呼びかけた。
ピリカは、パッと、大きな目を開き、素早く寝床を離れ、身構えた。
「何やっ」
形名は、咄嗟にピリカに近づき、ピリカの身体を引き寄せ、掌で唇を塞いだ。
形名の掌の下で、ピリカが
「本当に行くのか。どうやってここを抜け出すんだ」
と訝しんだ。
「大丈夫。僕は、嫌な事が有ると、いつも夜中にこの館を抜け出して、河原で一晩過ごしているのさ。館の裏の塀板が、一つ外れる様になっている。行こう」
形名はピリカの手を掴み、藁蓆の戸の隙間から、顔を半分覗かせた。
(いない.大丈夫だ)
形名は頭を全て出し、ゆっくりと首を大きく旋回させ、周囲の様子を注意深く確認した。
(見張りも、兵もいない)
「行こう。ピリカ」
形名とピリカは、全速力で、館の裏側へと駆けた。
館の裏で、形名は一枚の塀板を掴むと、引っ張った。
が、外れなかった。
「あれ、間違ったかな」
形名は、隣の板を掴み、引っ張ったが同じく。
「あれ、その隣かな」
形名は、焦った。
何枚のも板に手を遣ったが、何れも外れなかった。
「おい。誰かいるのか」
金を掴ませた者とは別の兵が、音を聞き付け、大声で叫んだ。
大きな風切り音がした。その刹那、塀板を突き刺す音が暗闇に響き渡った。
「おい」
兵の声に後れて、二本目、三本目の矢が板を突き刺した。
(やばい)
形名はピリカと目を見合わせると、ピリカを闇の奥へと軽く押し出し、振り返って、小走りに、兵へと駆け寄った。
「私だ。形名だ。狸を追っておった」
「こんな夜中に。形名様とて、賊と違えられれば、射られますぞ」
「すまぬ。昨夜も捕り逃したが故、今日こそはと夢中になり、塀の前まで追い詰めたのだが逃げられた」
形名の心の臓は、まるで踊っているかの様に激しく鼓動し、身体を飛び出るかに思えた。
形名はゆっくりと、
「剣を塀の前に置いてきた。私は剣を取ってから館に帰る。そなたは持ち場に戻っておれ」
と言ったところ、
兵が、
「剣は腰に」
と言いかけた為、
形名は金の粒をいくつか握らせ、
「女だ」
と、兵の耳元で優しく囁いた。
兵は忌避気味に、
「野外とは好色ですな」
と言うと、その場を立ち去った。
(実際どんな感じなのかな)
形名は、ピリカの手、唇、肩、頬と、形名の掌で捉えたピリカの感覚が、自分のものとは異なる事を思い出し、鼓動を高めた。
「おい。形名、気持ち悪いぞ」
形名は我に返った。
「兵は行ったよ。板を外そう」
形名は、板を繋ぐ縄を剣で裁ち、塀板を外した。




