第39話 ラガ
「逃がしてしまいましたな。手柄は無しじゃ」
羅我が笑った。
「まさか、各務野の身毛侵攻に雷が関わっているとは」
廉貞が顎に手を遣った。
「これから如何する」
武曲が廉貞に眼を遣った。
「仕切り直しだ。が、作戦に大した変更は無い。川を越える事には成功した」
廉貞は川の方向に眼を遣った。
「で、身毛殿は」
羅我が廉貞に尋ねると、
「だから、其方には言わぬ。そもそも、正確な事は分からぬのだ」
「廉貞殿。其方が私を信用出来ない事は十分に理解した。ただ、今後の戦を進める上で、最低限の情報の共有は必要じゃ。少なくとも、この後の策については話して頂きたい」
何故、羅我がこれ程迄に信頼が無いのか、それは羅我の出自に起因していた。羅我は漢人の商人で、唐との交易に従事していた。何処で生まれたのか、何歳なのか、その素性は不明であった。幼き頃は軽業師として諸国を渡り歩いたとの噂もあったが、真実を知る者は何処にも居なかった。若き羅我がこの界隈に姿を現したのは、物部守屋が秦河勝に首を刎ねられた、丁未の乱の頃。河勝の指示で、守屋の首を池で洗ったのは、羅我であったとも言われていた。漢人でありながら、秦人の河勝の配下として働く羅我は、漢一族の中で便利な存在ではあったが、疎まれる存在でもあった。羅我の扱う商品は、当然、日用品だけではなかった。羅我は、対立する両国に、相手国にどれ程の兵力が有るのかの情報と共に、武器を売った。そして、貧しき村々から子を集め、奴婢として売り捌いた。羅我の商いは、飛鳥の時代に於いては、何れも法外ではなかったが、各地で忌み嫌われた。この戦で使われている、本巣、身毛の武器も、各務野の武器も、全て羅我が高い対価で手配したものであった。
「では、一つ教えて頂きたい。何故、其方は、商人であるにも拘らず、この戦に関わる」
「余り過去について話しとうは無いのじゃが」
と羅我は空を仰いで、
「物部の一族に、両親を殺されたのじゃ。それ以上の何かが必要か」
と答えた。
廉貞は、羅我の瞳の奥を覗き込むと頷いて、
「分かった。身毛殿は既に作戦を開始して居る。が、身毛殿が何をして居るのかは、我等にも伝えられて居らぬ。我等に出て居る指示は一つ。日の出て居る内に、柵を守る各務野の兵を打ち破り、身毛の館前に陣取れと」
と蒼の策を伝えた。
「その指図は、思いの他、容易で有ったな。で、この後は如何するのじゃ」
「先ずは藍見川へ戻って、舟来彦殿の隊の様子を確認する。そこで隊を整え、身毛の館へ進軍する」
「承知致した」
五人は川に向かって馬を馳せた。
戦は決し、各務野の兵は、死した者達を残して、退散して居た。勝利を収めた舟来彦の部隊は一塊と成り、皆がその中央を覗き込んでいた。
「どうしたのじゃ」
遠くから部隊に向かって羅我が声を挙げると、塊の中央が開かれた。
五人は眼を凝らすと、中央に人が横たわっているのに気が付いた。
「舟来彦殿」
亀が叫んだ。
離れた距離からでも、その巨体から、横たわって居る者が誰なのかは、誰の眼にも一目瞭然であった。
五人は速度を上げて、部隊に近付いた。
亀は、馬を下りると、舟来彦の元へ駆け寄った。舟来彦の身体は紅に染まって居た。
亀が舟来彦の身体に触れ様とした時、
「駄目だ」
と兵の声が飛んだ。
亀は、舟来彦の胸に手を置いた瞬間、強い衝撃を左頬に受け、吹っ飛んだ。
「生きては居るな」
羅我が舟来彦を覗き込んだ。
「如何したのじゃ」
「寝て居ります」
「能く有る事なのか」
「屡々。戦に出かけ、大方片が付くと、戦場に大の字と成って横たわり、居眠りを始めてしまうのです。まぁ、その御蔭で、我等も戦の疲れを癒してから帰参出来ますので、有り難い事なのですが」
「廉貞殿、如何致します。私は殴られるのは嫌じゃ」
すると武曲が、
「私が」
と前に出た。
武曲も、舟来彦に負けず劣らずの体格の持ち主であった。
武曲が舟来彦の胸倉を掴むと、武曲に向けて、舟来彦の右拳が飛んだ。武曲は左腕で拳を受けると、両手で舟来彦の襟を掴んで、眠った舟来彦を立ち上がらせ、そのまま背に担ぐと、地に投げ付けた。
地を撃つ音が響いた。
「どうしたんだ」
舟来彦は眼を覚まし、彼を覗き込む武曲に、眼を丸くして尋ねた。
「移動するぞ。使える兵の数は」
横から廉貞が舟来彦に問うた。
「分からんなぁ。誰か分かるもんは居らんか」
「怪我を負った者が多数居りますが、二百五十は」
「五十を失ったか」
舟来彦は悲し気な顔をした。
「二百五十居れば十分だ。これから身毛の館へ向かい、館を奪還する。皆の者、良いか」
廉貞は、隊の全てに対して激を飛ばした。
二百五十余の兵は身毛の館を目指した。




