第36話 ヤアメ
「闇に紛れて柵を後退ったな」
羅我は放った矢が敵に届いて居ない事に気が付いた。
「舟来彦殿。敵の間を馳せて居る騎馬は、身毛殿の兵じゃ。敵が混乱して居る内に川を渡り、再び矢を放っては呉れぬか」
「承った」
羅我の指示を受けた舟来彦は、
「皆の者、進め。一気に川を渡るぞ」
と、兵を動かした。
すると、川を渡り切る既の所で、乱れる事無く進んで来た三百の隊列の一角が、突如、崩れた。
「如何した」
舟来彦が叫ぶと、
「穴が。川に穴が開いて居ります」
と兵が答えた。
「何だ、構わず進め」
舟来彦が、その儘、兵を進めると、列は次々と崩れて行った。
「何事だ」
「穴では有りません。溝が」
兵が答える最中、頭上に矢雨が降り注いだ。川は見る見る紅に染まり、隊は混沌とした状態に陥った。
「退け。川の中程まで退くんだ」
三百の兵は、川中へ引き返し塊となった。
「亡くなった者は」
「居りませぬ。怪我を負った者は居りますが、皆、戦えます」
「羅我殿、如何致す」
舟来彦が羅我に眼を遣ると、
「困ったのう。敵兵を掻き乱す身毛殿の兵も居らぬ様に成った」
と羅我は顔を顰めた。
「溝は深いのか」
舟来彦が兵に尋ねた。
「いえ。突然深く成って居りましたので、脚を取られて仕舞いましたが、深さは膝ほどです」
「渡れるのか」
「肩程まで水に漬かりますが、渡る事は出来ます。しかしながら」
「何だ」
「肩まで水に漬かっては、射矢による応戦が出来ませぬ。溝幅が分かりませぬので、溝を渡る途中で、敵に矢を放たれれば、どれ程の兵を失う事に成りますのやら」
「死ねるか」
「舟来彦殿。我等は舟来彦殿の望むが儘に従うのみ。真のこの地の王は誰なのか。我が一族の力を、本巣、身毛、各務野の支配者達に見せ付けてやりましょうぞ」
舟来彦と言う名は、舟来一族の長の名跡。オオナムチの一族がこの地を治めて居た頃、三野の地は、支流の舟来一族が舟来山に館を築いて支配していた。しかし、アマテラスの一族が倭を奪い、各地のオオナムチ一族を粛清する流れの中で、舟来一族はアマテラス一族の彦坐王に国を譲った。以降、舟来一族は本巣に住まう事を許されたが、アマテラス一族の被支配者として、税を納め、役務を熟して生き長らえて来た。何時の日にか、この地の支配権を取り戻す為、舟来一族は密々力を蓄えて来た。一族の結束は固く、勇猛果敢で命を惜しまず、戦の折には先陣を任される事が多かった。
「羅我殿。隊の覚悟は古来より決して居る。少し兵を失うかも知れんけど、向こう岸には辿り着けるで。進軍の判断は任せたわ」
羅我は舟来彦の言葉に頷いて、敵地に目線を移した。
「なあ、兄ぃ」
二人の遣り取りを聞いて居た亀が兎に話し掛けた。
「何だ亀。おめぇ、怖ぇのか」
亀は少し震えていた。
「五月蝿せぇ。武者震いだ」
「亀。大丈夫だ。俺等の剣技で矢は捌ける。だから、集中だけは切らすな」
「如何致しました。御二方」
二人の会話を耳にした羅我が話し掛けた。
「再び仕掛けますか」
兎が聞くと、
「御二方は御客人。決して安全ではない戦じゃ、外れて貰っても宜しいのですぞ」
「羅我殿、我等を侮らないで頂きたい」
「そうだ。羅我殿。毛野の衛兵は強ぇぞ。俺等の戦いっぷりを確りと眼に焼き付けてくれ」
「は、は、は。失礼、失礼。御二方は頼もしいのう。ただ、呉々も、私の元からは離れぬ様に。お願いしますぞ」
羅我は二人との話を終えると、再び敵地に眼を遣った。
先程から、何度も、敵地から川中に向かって矢が放たれている。が、届かなかった。
羅我は矢の着水地点を何度か確かめると、舟来彦に進軍の指揮を下した。
隊は再び横一直線と成って行軍し、矢の着水地点の直前で歩みを止めた。
「構え」
と舟来彦の合図を受けると、兵達は一斉に弓を掲げた。
「放て」
の舟来彦の号と共に、三百の矢が、放物線を描いて敵地に降り注いだ。
敵地が騒々しくなった。
「再び構え」
「放て」
敵地からは悲鳴が上がった。
三百の兵の背を押す風は、次第に強くなって居た。
「舟来彦殿」
と羅我が叫ぶと、
「行け」
と舟来彦が、空気が張り裂けんばかりの雄叫びを上げた。
兵は列を乱さずに川を進んだ。溝の掘られた川底を歩む時も、水上に出た頭は一直線であった。
降り注ぐ矢雨が、兵の顔を掠め、兜を打っても列は乱れなかった。
矢を顔や首に受け、命の途絶えた兵は列を外れ、川下へと流れて行ったが、命を繋ぎ先へと進む兵は、死した仲間を振り返る事無く、列を守って、一歩一歩確実に進軍した。
溝を越え、川岸に近付き、水の中から、無数の矢を鎧に受けた、兵装姿を現した二百数十の兵の手には、悉く弓が握られていた。
「構え」
舟来彦は生きていた。
敵の矢の飛び交う中、二百数十の兵は微動だにせず、一列と成って構えた。
舟来彦は、自らに迫る矢を薙ぐと、
「放て」
と叫んだ。
そして、続け様に剣を振り上げ、
「突撃」
と咆哮すると、敵に向かって全力で駆け出した。
矢を射終えた二百数十の兵も、失った仲間の無念を背負い、怒声を上げて舟来彦に続いた。
兵は列を作る事無く、各々が全速力で敵に迫った。




