第34話 フナキビコ
「地の利を得られるのは、この土地を治める為に数え切れぬ程の血を流して来た我等の他に、誰が居るのだ」
蒼は川向こうを眺めた。
「確かに。で、如何するのじゃ」
「其方も怪しい故、詳しくは言わぬが、藍見川を上り、柵を守る兵を奇襲する。其方等は、我等が上げる鬨に合わせて、対岸に向かって三百の兵で一斉に矢を放ってくれ」
「それは何時。信用せぬにも程が有りますぞ」
「夜明けと共に」
蒼は六騎の身毛兵を引き連れ、川伝いに山の方へと消えて行った。
蒼が消えてから一刻程して、三百兵全てが川岸に至った。兵は、皆、息も切れ切れで、既に疲れ切って居た。
それを見た羅我が、
「この儘では戦えまい。川の水でも飲んで休んでは如何か。戦は直ぐには仕掛けぬ」
と兵達に休息を促した。
すると、喉を渇かした一人の兵が川に駆け入ると、両手で掬った水を口一杯に含み、頭を川の中へと突っ込んだ。
それを見た三百の兵は、一気に川へと駆け寄り、水を飲み、水浴びを始めた。
水の力で体力が回復したのか、兵達は元気を取り戻し、互いに水を掛け合い、戯れ始めた。これから戦が始まる事など、まるで意識に無いかの様な無邪気さで、愉し気な水飛沫が舞い上がった。
しかし、和やかな時間は長くは続かなかった。
「あれ。雨でも降ってきたのか」
一人の兵が、何かが水を打つ音に気が付いた。
次第に雨脚は強くなった。
「違う。矢だ。敵が矢を射って来たんだ。逃げろ。逃げろ」
一人、二人と、矢に当たり血を流す兵が現れ、三百の兵は必死に川を離れた。
「川の中程に至らねば、柵の向こうに矢は届かぬな」
羅我が呟いた。
「羅我殿。故意に兵を促したのですか」
兎が尋ねた。
「身毛殿より、明朝、敵に向かって矢を放てと、指示が出て居りますのじゃ。届かねば、矢を無駄にするだけじゃろ」
「おい。おめぇは兵を無駄にしてんじゃねぇか」
亀は顔を真っ赤にしていた。
「なぁ、若造。この場所で矢に当たる奴は、明日の戦で死ぬ奴じゃ。しかも、この距離の矢で死ぬことは無い。怪我をした奴は戦場を離れれば良いだけの事じゃ。既に仕事は成した。運の良い奴等じゃ」
「じじぃ。おめぇ、何言ってんだ」
と、亀が羅我に掴み掛かかろうとした所で、透かさず兎が、
「抑えろ、亀。しかも、羅我殿は翁ではない」
と亀を制した。
「なぁ、甕依殿。御主には戦の経験が無いのじゃろ」
亀は黙って、羅我を睨んだ。
「人の死に心を揺らし過ぎじゃ。戦では、矢が雨の様に降り、次々と兵が倒れて行く。誰かが、その屍を踏み越え、矢雨の間隙を潜り抜け、敵に辿り着き、将の首を取って戦を終わらせる迄、人は死に続けるのじゃぞ」
図星であった。亀には戦の経験が無かった。衛兵として、賊の討伐に加わった事は有ったが、多くて数十名の戦闘。此度の様に数百の兵を伴っての戦は始めてであった。
「亀。羅我殿の言う通りだ。戦は惨げぇ。それを経験した者と、経験していない者との間には、決して埋められぬ溝が有んだ。それ故、此度は本巣殿に願い出て、おめぇにそれを経験させたかったんだ」
「兄ぃ」
「ここからは黄泉の世界だ。もし、俺が変わり果てた姿に成っても、醜女から逃れるが如く、決して振り返ってはなんねぇ。剣を振り、敵陣に切り込め。それだけが、黄泉の世界から逃れる方法だ」
「菟道殿は良くご存知じゃ。その若さで、その心意気に辿り着くとは」
「いえ。これは毛野の衛兵の心構えです。初陣に臨む折、親父殿より教わりました」
「明日は頼もしいの」
羅我は、三百の兵に視線を巡らせ、
「怪我をした者は戦から外れても良いぞ。咎めはせぬ。敵の矢の届く範囲は察しが付いた。良い働きであった」
と声を上げた。
「おい、じじぃ。何処の誰だか知らんけど、本巣の兵にそんな腰抜けは居らんよ。しかも、偉そうに。身毛殿は何処へ行った」
と、三百の兵隊長と思しき六尺を超える大男が羅我に近寄った。
「身毛殿か。身毛殿は私に策を伝え、既に戦に入った。ここからの指揮は、策を受けた私が行うつもりじゃが、不満でも御有りか」
「認める訳には行かんよ。三百を束ねて居るのは俺だでよ。指揮は俺が執る。じじぃ」
「威勢が良いのぉ。おやじ。私は其方と歳はそうは違わぬぞ」
と言うと、羅我は杖から剣を抜いた。
「じじぃ。殺るのか」
「力で示さねば、分かって呉れんじゃろ。安心せい。殺りはせん」
「じじぃ。そりゃあこっちの台詞だて。殺さん様に手加減したるけど、怪我させてまったら、御免な」
と兵隊長も、その身体に見合った豪壮剣を抜いた。
「立派な剣じゃ。其方、名は何と申す」
「聞く前に名乗るのが礼だろう。そう言う上からの態度を改めさせて貰うでよ」
兵隊長は羅我との間合いを詰めた。
羅我は間合いを外すと、
「済まぬ。済まぬ。私の名は羅我じゃ。仲良う頼むよ」
と獣の様に鋭い犬歯を覗かせた。
「羅我ねぇ。聞き覚えの有る名だ。良い噂は聞かんけど、強いらしいな。丁度良い機会だ。あんたを黙らせて、名を揚げさせて貰うでよ。俺の名は舟来彦」
と言うと、舟来彦は間合いを一気に詰め、剣を右下から左上へと大きく弧を描いて振り上げた。




