第25話 ミノ
翌朝、兎と形名が猪鍋の準備をして居ると、
「旨そうな匂いじゃな。甕依殿は如何かのう」
と、斐が扉を開いて入って来た。
「亀はまだ寝て居ります」
兎が言うと、
「起きてるよ」
と、床の中から亀が答えた。
「少し診させてくれ」
斐は亀に近付き、亀の身体を隈なく確認した。
「まだ少し強張って居る所は有るが問題ない。動かせるか」
「何とか」
「まあ、動かし難いのは、仕方が無い。少しづつ動きも良く成って行くはずじゃ」
斐は亀の肩を軽く叩いた。
「今日は、野菜を食べも良いぞ。肉は未だじゃ」
と斐は亀に向かって告げた。
「分かりました。斐殿。また毒見を」
兎が、肉と野菜を山盛りにした碗を斐に手渡すと、斐は碗を手に取り、また、肉から箸をつけて、頬張った。
「良い味じゃ。甕依殿。精が付きますぞ」
斐は笑みを浮かべた。
「斐殿。御礼の方は如何致せば」
兎は馬を売って手に入れた金粒を一握り、斐に手渡した。
「仏の道は、救世の道。御心だけで、と御説きになる高徳の僧も居られますが、私は俗僧。そこで、一つ、相談事が有るのじゃが」
と、金粒一握りを袖の下に仕舞うと、右の手刀を顔の前で小さく斬った。
「何に御座いますか」
兎が返すと、
「人を一人、其方等と一緒に連れて行って欲しいのじゃ」
「人ですか」
「そうなのじゃ」
斐は何か奥歯に物の挟まった様な物言いであった。
「如何言う事なのですか。はっきりとお願いします」
兎が焦れて斐に問うた。
「青野の姫を国許へ連れて行って欲しいのじゃ」
「いいですよ」
と形名が答えたが、
「いえいえ。そう言われましても、事情が飲み込めません」
と兎は説明を求めた。
「菟道殿は、この辺りが三野と呼ばれて居るのは知って居るな」
「はい」
「しかし、三野とは、一つの纏まった国の名ではないのじゃ」
「そうなのですか」
「三野とは、青野、大野、各務野の三つの野の総称。今、アマテラスを祖とする青野の王が三野氏を名乗り、倭王権の中で三野国の王として連合に属して居る。アマテラス一族が能く遣る勝手な名乗りじゃ。青野の北に位置する大野の王は、額田の一族で、青野の三野一族とは縁戚関係にある。額田一族は、アマテラスに繋がる三野一族を支援する事で、倭王権における地位の確立を狙って居る。各務野を治めるのは物部の一族。物部一族は、倭では物部守屋が厩戸王と結んだ蘇我馬子に敗れて地位を失ったが、各務野に於いては未だ大きな力を有しており、三野一族に抗うて居る」
乙名子の話を思い出した形名は、
「オオナムチの一族と同じ様に、倭の地を奪われた物部の一族は、各地に於いてもアマテラスの一族に服従を迫られるのでしょうか」
と尋ねた。
「大王とはこの地の全てを平らげる事を天に許された王じゃ。それ故、アマテラスの一族が倭王権の全てを牛耳るまで戦は続く。もし、自らの一族が大王と成りたければ、天に選ばれ易姓革命を起こすより他は無い。服従すれば、其の運命は大王任せ。争いは絶えぬ」
「アマテラスでは無く、その青野の姫を国許に連れて行くとは、どの様な要件なのですか」
形名の言葉の意味が分からぬ兎は、話を戻した。
「そこじゃ。青野の王は、各務野の王と血縁を結ぶ為に姫を送ったのじゃ。が、青野の分家の暴走により和議が破れ、両国の間には戦が始まった。その罪を背負わされた姫は、首を落とされそうになったのじゃが、命辛々逃げ出して、私の寺に至ったと言う訳じゃ。刀支の里は各務野王の庇護下にあり、既に、各務野の衛兵が何度も姫を尋ねに来て居る。一方、我等、漢人は倭の大王の庇護下に有る。それ故、我々は倭の大王に繋がる青野の姫を助けて遣りたいのじゃ。但、今、我等と刀支の里の者とは非常に良い関係で遣って居る。もし、私が、姫を青野に連れて行き、それが各務野の王に知れる事と成れば、我等の監視を怠った刀支の里には害が及ぶ。そこで、其方等、旅の御方に姫を紛れ込ませて、青野に届けて欲しいと言う訳じゃ」
「其れは荷が重過ぎる」
兎は苦い顔をした。
「兎殿、何とかしてあげましょうよ」
形名は乗り気であったが、
「もし、間違えれば、青野と各務野の戦に巻き込まれるのですぞ。亀も未だ息災ではない。折角繋いだ命も落とし兼ねませんぞ」
兎は少し声を荒げた。
それを聞いていた亀が、
「兄ぃ、俺は、斐殿に命を繋がれたんだっぺよ。って事はよ、斐殿は命の恩人だべ。其の命の恩人が、次は、青野の姫の命を繋ぎてぇって言ってんだ。其の手伝いが出来ねぇなら、俺は碌で無しだ」
と、未だ病の癒えぬか細い声で、力強く訴えた。
兎も、形名も、言葉に出さなかったが、覚悟は決まった。
「漢人の人脈を通じて、万全の策を講じる。安心して呉れとは言わぬが、信じて欲しい。慎重に事を運べば、其れ程難しい役目では無い」
斐は頭を下げた。
形名の一行が刀支の里を発ち、漢人の集落で姫を受け取り、青野へ向かうのは、亀の体力回復を待つ五日後と成った。その間に、斐は漢人の人脈を通じて、思いつく限りの策を練ると約束した。




