第19話 カツラク
兎は崖を滑り降りて二人に近付き、
「形名殿。お怪我は」
と、先ず形名の様子を伺った。
「大丈夫です」
形名は着衣こそ泥だらけと成って居たが、身体に一切の傷は見られなかった。
「亀は」
「息は有ります。唯、気を失って居るだけです」
兎が亀の頬を数度張ると、
「痛て」
と亀は目を開けた。
「動けんのか」
亀は順繰りに身体の隅々に意識を巡らせ、壊れた部分を確認した。
「痛てえのは、斬られた腕ぐらいだ」
全身擦り傷だらけの亀は笑った。
「で、登れんのか」
「兄ぃ。ちょっと肩を貸してくれ。右腕に力が入んねぇ」
「分かったよ」
亀は兎の左肩を借り、崖を登ろうと、脚に力を込めた。
未だ殴る様に降る雨が、山の上から斜面を伝って、川の浅瀬の様に流れて居た。
「駄目だ。滑って登らねぇ」
亀は半笑いで愚痴った。
「兄ぃ、もうちょっと近くに寄ってくんねぇかな」
「おう」
亀は、左手を斜面に付き、三つの手足で確りと身体を支えると、左脚を一歩踏み出し、身体を引き上げようとした。兎も、亀の動きに合わせて、力を込めて亀の右脇を担ぎ上げた。
「駄目だ」
亀の左脚は斜面を滑り、元の場所に戻って来た。
「四つの手足で登らないと無理だな。兄ぃは、形名を連れて、先に登っててくれ」
「そうするしかねえな」
「そう言う事だ、形名。先に行っててくれ」
「嫌だ。一緒に登る」
「おめぇも見てたろ。登れねえんだ」
「形名殿。亀がこの崖を登るのは無理です」
「嫌だ。亀はここに残ってどうなる」
「亀は自分で何とかします」
「嘘だ。私を馬鹿にするな」
「形名殿。我等下家は、上家を支える為に存在して居ります。上家が在ってこその下家。上家の主、形名殿を守る事が、私と亀のこの旅の使命。この雨の中、夜を迎えれば、命が危うく成ります」
「そうでしょ。兎殿。このままにして置いては、亀の命が危うく成るのだ。だから嫌だ」
「なあ、形名。下家が上家を守るのは、親の親のそのまた親から続く約束なんだよ。だから、守らせてくれよ、形名」
「嫌だ。亀。僕が亀と交わした約束は、こうやって上下の別無く話す事だけだ。そんな約束は父上様からも聞いて居らん」
「形名殿」
「僕は父上様が亡くなってから、ずっと大人達に囲まれて生きて来た。ずっと、ずっと、寂しかった。ピリカが来て、ちょっと楽しかった。でも、結局、それもお別れ。今回、兎殿と亀が、一緒に旅をしてくれて楽しかったんだ。それなのに、ここで亀とお別れ何てしたくない。約束って何なんだ。僕が、僕が弱い所為で、兎殿と亀が、二人で五人も相手にしなくちゃならかったんじゃないか」
「形名殿。それが、我等の使命」
「だから、そんな約束、いや、使命なんて聞いてない」
「形名。頼むよ。兄ぃも困ってんじゃねぇか」
雨は未だ強く、着ている衣服がずっしりと重くなる程、三人はずぶ濡れと成った。
「形名殿。そろそろ参りませぬと、日暮れまでに坂を越えられませぬ」
「嫌だ」
「形名。これ以上、俺等を困らせんな」
亀が声を荒げた。
形名は少し考えると、
「そうだ、下ろう」
と提案した。
「形名殿。どうして上に道が見えているのに、下へ行くのです」
「亀が登れないから」
兎は下に眼を遣り、下は木々に隠れて、先が見渡せない事を確認した。
「下に行っても、何処に辿り着くのやら。道を失えば、命を失う事も有るのですぞ」
「下だ。下に行く。それ以外は嫌だ」
兎はじっと亀の眼を見詰め、
「下へは行けんのか」
とゆっくり問うた。
「下ならな。でも、どうなっても知らねぇかんな」
「形名殿。行きましょう。下へ」
兎は覚悟を決めた。
「では、付いて来て下され」
兎が、再び巧みな足裏裁きで、ずるずる斜面を降り始めた。
「おい、次は形名だよ」
亀が形名の肩を叩いた。
「亀、絶対に来るんだよ」
形名は不安げに亀を観た。
「行くよ、絶対。それは信じろ」
の言葉を聞いた形名は、兎に続いて、斜面を滑った。
続いて、亀が斜面を滑り始めた。が、亀は尻餅をつくと、
「うわぁ」
と叫んで、尻で斜面を滑り出した。
亀は背中を地面に着けて何とか止まろうとしたが、雨が川の様に流れる山の斜面は、亀の必死の抵抗を無にした。
「すまん。形名」
斜面を滑る亀は、進む程に勢いを増し、前を降りる形名を巻き込んだ。
「うわぁ」
巻き込まれた形名は叫び声を上げ、亀と共に斜面を滑った。
亀と形名は、兎の横を滑り抜いた。
「形名殿」
兎は、足の裏で滑って二人に追い付くと、形名の腕を掴んだ。が、形名の勢いは、兎の手に負えるものでは無かった。
「あぁ」
と三人は、止まる事無く、下へ下へと滑り落ちていった。
兎が前に眼を遣ると、
「崖だ」
と、見る見る迫る断崖に気が付いた。が、時既に遅し、三人は宙を舞い、地に叩き付けられた。
「痛」
と、顔を上げた三人の前に、暗い雨の中へと消えた賊頭が現れた。




