第17話 シロキシカ
一行が部屋に入ると、
「あんた方、坂を越える準備をしとらんだら」
と女が尋ねた。
「特別な準備が必要なのですか」
兎が問い返すと、女は、
「ちょっと待っとりいな」
と言って、部屋を出た。
女は直ぐに戻って来て、
「うちのおっとうを連れて行きなんしょ」
と、一行に亭主を紹介した。
亭主は、
「準備には金が掛かっぞ」
と一行を見渡した。
兎が、
「形名殿」
と眼を向けると、形名は腰の袋から金の粒を幾つか取り出して亭主に手渡した。
「これじゃ足んね」
と亭主が首を横に振ったので、形名は先程よりも多くの金の粒を亭主に渡した。
「明日の朝、まだ日が昇らんうちにここを発つで、そのつもりで」
と告げると、亭主は部屋を出て行った。
一行はその晩は早く休み、次の日に備えた。
「亀、早くしろ」
未だ日が訪れぬ中で、兎の声が響いた。
「朝から怒らなくても良いではありませんか」
形名が嫌そうな顔をして、兎を諭した。
一行は準備を終え、山の輪郭が薄らと見え始めた頃、部屋を出た。
外には既に宿の亭主が、一行の馬三頭と更に四頭の馬を連れ、待っていた。一行の馬には水と食料が積まれていた。
「お早う御座います。あんたらの馬ではあん坂は登れないずら。おれの馬で坂を登り、頂上であんたらの馬と乗り換えてくれなんしょ。頂上まではおれが案内しまい」
亭主の馬は、胴が長く、腹は大きく丸く膨らんで、四つの脚が異様に短い、独特な体型をしていた。山を登る為に創られた力強い姿。この地域に特有の馬だ。
亀は馬に近寄って、
「すげぇなぁ」
と言い乍ら、馬の身体を摩ると、
「何だ、この肉付きは」
と興味深そうに、馬の彼方此方を軽く叩いた。
一行が亭主の用意した馬に跨り、宿を発とうとした時、
「おっとう、気を付けないよ」
と女が館から出てきて声を掛けた。
亭主は片手を挙げて、
「おう」
と応じると、
「さあ、行かまい」
と一行を促した。
亭主を先頭に、一行は山へと向かった。空は橙から青へと段々と色を変え、急峻な坂の入り口に着く頃には、一行の背には日が差していた。
「さてここからは、あんたらが前に行ってくなんしょ。間にあんたらの馬を挟んで、おれが後ろから案内しまい」
一行は、亭主の言葉に従って、先頭を兎、次を形名、その後ろを亀、一行の馬三頭を挟んで、亭主が並んで、細い山道を進み始めた。
一行は、左手に川音を聞きながら、山道を登った。その間、何度も兎が道を急ぐので、その都度、亭主が兎を留め、ゆっくりと、慎重に、列を進めた。
「大した事、有りませぬな」
兎が言うと、
「道が川から離れ、山の奥へと入って行く所からが本番だで」
亭主は返した。
「さて、ここでちょっと休もまい」
川から離れた道が頂へと向かう入り口は少し広く成って居り、一行はここで馬を降りて暫しの休憩を取った。
「先頭の御方、ここからは呉々も、急がんでくなんしょ」
「兄ぃは、急勝だっかんな」
「五月蝿せえ」
「兎殿も、亀も、止めて下さい」
「あんたらは元気ですなぁ」
空気は次第に暖かくなり、木々の間には光が差し込み、揺れる木の葉が一行に影を映した。一行は、穏やかな時の中で、水を含み、腹を満たした。
「さて、先程も申しましたが、ここからが本番だで」
と、亭主は一行に釘を刺した。
頂へ向かう、何度も、何度も、曲がりくねった急峻な狭い山道を進むと、次第に周囲が暗くなり、遠くで微かに雷鳴が轟いた。
「まずいな」
亭主が呟いた。
一行が険しい山道を更に登ると、急に周囲を靄が包み、見る間に、亭主からは兎が霞んだ。
「前後を詰めてくなんしょ」
亭主が言う間に、大きな鹿が山から駆け下りて来た。鹿は一行の前で立ち止まると、一瞬、一行を睨み付け、木々の中へと消えて行った。
一行は歩みを止めた。
「白くなかったか」
亀が言うと、
「うん、白い鹿だった」
形名が返した。
亭主は顔を強張らせ、身体を小刻みに震わせて怯えていた。
動揺する一行に向け、霧の奥から空気を裂く音が迫ると、亭主が唸り声を上げて、馬から落ちた。
「どうした」
薄らとしか亭主の様子が見えない兎が叫んだ。
「矢だ」
亀は叫ぶと馬から飛び降り、馬の陰に隠れた。
再び空気を裂く音がすると、形名は剣を抜いて、矢を薙いだ。
(見えているのか)
兎は疑問に思いつつ、馬を下り陰に隠れると、
「形名殿も隠れて下され。早う」
形名は馬上で、次の矢も薙いだ。
「早う」
兎は形名の腰を掴むと馬から引きずり下ろした。
形名は震えて居り、その場にしゃがみ込んで、固まってしまった。




