第116話 ヒンソウ
「掟とは」
赤猪は眼を見張った。
「吾が父上様と同じうに」
石成の言葉に、赤猪は頭を左右に振った。
石成が眼で合図をすると、意識の戻らぬ形名の手足に、従者が縄を掛けた。
「何を為さる」
と赤猪が叫んで、形名に寄ろうと踏み出したのを、石成は制した。
「長野。形名様は、真に、形名様は熊を倒したのだな」
「はい」
石成の後ろから問う赤猪に向かって、長野は大きく縦に首を振った。
「そうは言うが、山へ入った布加無曽の兵は、倒した熊を見付けられなんだので有ろう。そして、その見付けられなんだ熊の親子を、今、ここへ持って来たのは、吾が息子。王としての役務を果たしたのは誰なのか。それは、自明の理」
赤猪、長野、秋野は、拳を握り締め、地を見詰めるより他は無かった。
「これより、吾等、阿佐久良一族が総領館へと入り、毛野の政務を執り行う」
石成は兵に命じて、手足を縛った形名を板に乗せ、惣領館へと運ばせた。
石成の一行が、惣領館に着くと、
「おい、形名、如何したんじゃ」
と、板の上に横たわる形名に気が付いたピリカが、館を飛び出した。
すると、
「この者を捕らえよ」
との石成の指示に応じた兵達が、ピリカを取り囲んだ。
ピリカは、自らを捕らえようとした兵の顎に、瞬時に膝を入れ、卒倒させた。
「何なんじゃ、阿佐久良殿。形名は死んだのか」
戦の折に、命を失った兵は、板の上に乗せられて、家へと運ばれた。
「形名様、否、形名は、生きて居る。が、意識は無い。意識を失うて、熊送りを成せなんだのだ。故に、惣領の地位を失うた。そして、村長達の合議で、吾等、阿佐久良一族が、惣領の地位を受け継ぐ事と成ったのだ」
「何じゃと」
「それと、形名は、王の役務を果たさぬ者として、咎人と成った」
「何」
「それ故、手足を縛られて居る」
「何故に、意識を失うたんじゃ」
「熊に遣られたみたいだのう。顔に熊の爪痕が残って居る。山の中で、形名も、布加無曽の息子達も倒れて居ったとの事だ」
「そんな訳は」
形名の鉄壁の防御を知るピリカには、受け入れ難かった。
「それと、其方は、もう王の姫君では無い。まあ、吾が息子の妻として遣っても良いのだが、この様に粗野な姫君を息子は好まぬ。故に、心を入れ替える迄は、アペの人質として扱わせて頂く。今後、一切、部屋を出る事は罷り成らぬ」
ピリカは抗ったが、多勢に無勢。座敷牢へと押し込められた。
――五年振りか。
ピリカは、アペの族長館でシヌエを施された後に、牢に閉じ込められた時の事を思い出して居た。
「ピリカよ。石成様が御呼びで有る」
ピリカを牢へと運んだ兵が、扉の前で告げた。
――あの時も十日で有ったな。
ピリカの脳裏に、自分がここへ連れて来られた日の事が蘇った。
「何じゃ」
「偽王、形名の刑が執行される」
「何じゃと」
「其方も見届けよとの、御達しで有る」
「あぁ」
ピリカは牢を出ると、案の定、暴れ出した。
兵は、それを見越した上で、備えをして居た。兵が声を上げると直ぐ様に、大勢の者達が駆け付けた。
ピリカは取り押さえられ、手枷、足枷を付けられると、館の外へと連れ出された。
ここ数日、雨が降り続いて居た為、館を囲む堀の水は溢れんばかりに満ち、崖下の水路に向かって、激しく滝の様に流れ落ちた。
「形名」
崖上の館の門が放たれると、ピリカは、水路に浮かぶ小舟に、形名が横たわって居るのに気が付いた。
形名は動かない。
「形名は死んだのか」
船着場に着いたピリカは、そこに立つ石成に尋ねた。
「否、生きて居る。そう、息はして居るのだが、未だ眼は覚まされぬ」
「船の上に寝かせて、何をするんじゃ」
「流します」
「何じゃと」
「粗野な振る舞いは治らぬと見えるのう。それでは、我が息子の姫君にはそぐわぬぞ」
「五月蠅せぇ」
ピリカは、石成の後ろに隠れるように立つ久比麿を睨み付けた。
久比麿は眼を伏せた。
「此奴がカムイホプニレを成したんじゃと。俄には信じられんのう。全く覇気が無い。キムンカムイが此奴に殺られるものか。そして此奴にオオナムチの能力何ぞが有るものか」
(ああ、此奴にはオオナムチの能力は無い。貧相な外殻だ。オオナムチが宿れば、命を落とす)
「何だ、この犬児は。しっ、しっ」
石成は、川下から現れたヌプリを追い払おうと、手を振った。
(形名は、熊を倒した。オオナムチの能力でな。だが、殺りはせんかった。何を考えて居るんだか。そして、此奴は熊を狩っては居らぬ。殺ったのは配下の兵だ)
ヌプリは、形名を追って、黒う嶺に入って居た。
「そうじゃったんか」
ピリカは大きく頷いた。
「何を犬児と喋って居るのだ。気でも触れたか」
石成に、ヌプリの声は届いて居なかった。
「まあ、良い。これから、偽の王、形名が、王の役務を放棄した咎に対する刑を執行する」
石成は、剣を抜くと、天に翳し、大きく振り被って、斬り付けた。
小舟を船着場に繋ぐ縄が絶ち斬られ、船は離岸した。
堀から水路へと流れ込むの水の流れは早く、形名を乗せた小舟は見る間に小さく成り、利根川の流れへと消えて行った。




