第115話 オキテ
「形名様は」
石成が問うた。
「眼を御覚ましには成りませぬが、重湯を口に御運びすれば、御召に成る」
赤猪が答えた。
「そうか。生きて居られるか」
「はい。所で、熊送りの儀は」
「そうだ、その事で参った」
「他の長は何と」
「形名様は、身罷られた方が楽だったのやも知れぬ」
「何を仰る」
「形名様は王の器に非ず。これが他の長達が導き出した結論だ。そして、王の血脈は、吾が阿佐久良一族が再び受け継ぐ事と成った」
「何ですと」
「その証に、吾が息子、久比麿を連れて参った。赤猪殿には石舞台を御覧頂きたい」
言い終えた石成の後ろで、久比麿が赤猪に向かって深く頭を下げた。
赤猪は、石成と久比麿に続いて、石舞台へと急いだ。長野は、未だ傷の癒えぬ秋野に肩を貸し、一歩一歩、足下を確認しながら館を出た。
「あぁっ」
秋野を担ぐ長野が、石舞台に蹲む石成の背中越しに覗いたのは、黒き毛に覆われた塊。
「それは」
長野が深山から里山へと誘い、狩ろうと試みた親熊で有った。
「子も」
親の隣には小さな黒い塊が在った。
「久比麿が狩って参った。吾が息子が、見事に熊狩りを成し遂げ、毛野の王の血脈を受け継ぐ証を示したのだ」
石成の高らかな叫びが、黒う嶺に響いた。
元来、毛野惣領家を継いで来たのは阿佐久良の一族で有った。
形名の曾祖父、多遅麻の後を継ぎ、阿佐久良の地を治めたのは、長兄で、石成の父、首名。次兄で、形名の祖父、島守は、多遅麻の命により、雷の峰の裾野に繋がる台地の北端開発を任され、多遅麻の死後も、北端の地を耕し続けて居た。
北端の地は、雷の峰から連なる林を、人が切り拓いて作り出した耕地で、獣からすれば縄張りの中。即ち、獣界である。獣界では、獣界の王、熊が、我が物顔で歩き回る。
だから、北端の地には、時として、熊が現れ、人が成した物を、気の向く儘に、破壊した。
耕した地を人界とするには、獣を排除する為の争いが避けられぬ。
そして、それは、当然、王と王との戦いに帰結する。
そこで、人界の王として、熊狩りの役目を負わねば成らぬ者は、唯一人。毛野の王、首名で有った。
ある秋の透き通る程に晴れた日、熊は、突如として、現れた。北端の地では、これに即応し、阿佐久良の総領館へと伝令を走らせた。
北端の地で首名の到着を待つ民達は、熊に手を出す事を躊躇って居た。
何故なら、ここは未だ、獣界で有るから。
獣界で獣を殺すは、咎。しかも、今、相手にして居るのは、その王。
人々は報いを怖れて居た。
しかし、首名も、報いを恐れた。首名は伝令を受けた後、阿佐久良の総領館に築かれた社に籠って、祈りを始めたのだ。
北端の地では、民が汗を流して育て上げた恵みを、獣界の王が荒し続けた。
成す術の無い民達は、絶望に暮れ、天を仰ぎ、地に拳を打ち付けた。
それを見兼ね、剣を抜いたのは、島守で有った。
「島守殿、成りませぬ」
近習が島守の前に跪いて制したが、
「これ以上、兄上を待って居っても仕方有るまい。観よ、吾等が成した稲を、田を、家を。まあ、獣達にしてみれば、吾等が侵略者。吾等を排し、ここを元の林に戻す事が獣の道理なのやも知れぬが、人は田を成せる場所を探して木を倒し、地を耕して水を引き、稲を育てて、子を増やして来た。その子等の未来の為に、吾等、大人は獣を排し、ここを人界にせねば成らぬ」
「なれど、報いが。獣界の王を殺せば、島守殿に報いが及びます」
「報いか。王の家に生まれ、この地の開発を託された吾が、民の、否、これから、吾等が拓きしこの北端の地を、受け継いで行く子等の為に、背負うて、死ぬるも必定」
島守は熊を剣で貫いた。
熊を狩った島守は、熊送りの儀の後に、毛野の王と成った。
一方、首名は、王の役務を果たさなかった咎人として捕縛され、手足に縄を掛けられた儘、小舟に積まれて利根川へと流された。
これは長達の合議によって決せられた掟で、新たに惣領と成った島守でさえも、これに抗う事は許されなかった。
唯一つ、島守の望みが叶うたのは、生まれたばかりの石成を、阿佐久良の地で育てる事で有った。
島守は、長く生きた。報いなど無かったかの様に。
子も、二人授かった。形名の父、池邉と、今、ここで、二つの熊の骸を眺める赤猪である。
「又も報いか」
赤猪は呟いた。
――報いは必ず訪れる。血脈とはそう言うものぞ。
赤猪は、死に際の、父、島守の言葉を思い出した。
「形名様は。形名様は如何なるのです」
赤猪の問いに、石成は答えた。
「吾等は掟に従うのみ」




