第112話 コグマ
「でも、殺さずとも」
形名は顔を上げて、小さく呟いた。
「形名様。ここは深山、獣界です。周りを冷静に観て下され」
長野が辺りに気を巡らし乍ら、低い声で形名に告げた。
形名は暗い森の中へと眼を凝らした。
地面には、息絶えた鼠の腹を漁る虫達が居た。すると、落ち葉の下から現れた蜥蜴がその虫を喰んで走った。逃げる様に地を駆ける蜥蜴は、突如、舞い降りた鳥に啄まれ、木枝へと運ばれると、背に幾度も鋭い嘴を突き入れられた。そこへ、梟の爪が音も立てずに空を裂き、枝で腹を満たす鳥を掴んで森の闇へと消え失せた。後には、乱れ散る羽毛を追い抜いて、動かなくなった蜥蜴が地に落ちた。落ち葉の上で動かなくなった蜥蜴には、見る間に、虫達が群がった。
ここでは、次々と、命が奪われて行く。
そして、ここに、それを悲しむものは居ない。
深山とはそう言う所だ。
でも、僕は人間だ。
形名は分からなくなった。
「形名様、この場を離れましょう。血の臭いは獣を引き寄せます」
長野に言われ、慌てて、この場を後にすると、直ぐに、獣達の争う咆哮が森の中へと響き渡った。
深山に入って十日、形名達は、未だ、熊を見付けられずに居た。
息を潜めての狩りには制約が有る。緊張が解ける事は無い。完全に眠る事も出来ない。虫も食べた。御馳走は、鼠と蛇で有った。
三人の頬は痩け、眼の下には隈が現れた。
「形名様、動けますか」
「はい。大丈夫です」
長野の問いに、形名が答えた。
「形名様、絶対に熊は見付かります。そして、必ずや熊狩りを成し遂げましょう」
秋野は懸命に笑顔を作った。
獣毛に身を包む三人は、慎重に、気配を殺して、森の中へと分け入り、熊を探した。
やはり、今日も熊を見付ける事は出来ないのか。三人の肉体と精神は限界に近付いて居た。
「兄様。間に合いますよね」
秋野が、不安気に、長野に確かめた。
形名には伝えられては居なかったが、黒う嶺に入りて二十日と成る今日一杯で、熊狩りは打ち切りと成り、明朝には布加無曽の兵が山へと終わりを告げに来る運びと成って居た。
これは、赤猪が決めた事で有った。
「間に合わせる。それが吾等の務めだ」
長野は森の奥へと感覚を研ぎ澄ました。
「必ず居る」
三人は、尚も探した。
陽が西へと傾き掛けた頃、突如、
「あそこに」
と、長野が茂みの奥を指さした。
指の先では、枝と葉が小さく揺れて居た。風が揺らしたのかと思うほどの微かな動きで有った。が、極限まで気を高めた長野には、その先に居る物が何なのかは、分かって居た。
長野は、ゆっくりと息を吸うと、弓を番え、息を殺して弦を引いた。長野の気を感じ取ったのか、枝葉は動きを止めた。その刹那、長野は矢を放つ。茂みの中からは、甲高い獣の叫びが上がった。
「遣った」
長野は小さく呟くと、剣を抜いて枝葉の方へと駆け、茂みに消えた。
茂みの中からは、獣の悲鳴が響いた。
「兄様」
秋野が声を掛けると、茶の毛を纏う長野が、黒毛の獣を引き摺って現れた。
手にした物は、今年生まれたばかりの熊で有った。
「運が良い。親から逸れたのでしょう。こいつを連れて里山へ戻り、そこに親を誘って、狩りましょう」
「殺したのですか」
形名は悲しげに尋ねた。
「否。子と雖、深山で熊を殺れば報いを受けるやも知れませぬ。故に、気を失わせただけです」
「そうですか」
形名は胸を撫で下ろした。
「形名様、急ぎませぬと」
長野は森の奥深くを指さした。
「観えませぬか」
「何も」
「親が気付いた様です」
長野は、葉が擦れる音が、近付いて居る事に気が付いて居た。
「秋野、後ろを任せるが故、もし、親が追い付いたら、死んでも止めよ」
「兄様、承知致しました」
「さあ、形名様」
長野は、形名の背中を押して前へ行かせ、山を下った。
秋野は、もし、親熊に追い付かれたとしても、自らが盾と成る事で、前の二人が無事に里山へと至れる様にと、少し距離を取って、二人に続いた。
三人は、全速で坂を駆けた。殆ど、転げて居ると言っても良い程だ。何度も、手を着き、尻を着き、里山へと向けて落ちて行った。
その速度に負けぬ速さで、葉の擦れる音は近付き、大きく成った。
終には、荒い息遣いと、唸り声も聴こえる程に、親熊は近付いた。
「形名様。里山は、もうそこに御座います。早う」
長野は声を荒げた。
もう、獣達に人と悟られても構わぬ。息を殺し、気を絶つ必要は無い。兎に角、全力で里山に向かい、そこで親熊を狩る。長野は、下へ、下へと、右手に子熊を持ち、左手で形名の背中を押して、斜面を駆けた。
すると、後ろから、
「兄様」
と、秋野の叫びが聞こえた。
親熊に追い付かれたか、と長野が後ろを振り返ると、秋野は為す術も無く、唯、親熊に吹き飛ばされた。
親熊は、秋野が取った距離など、無意味で有ったかの如く、長野に迫った。
――だめだ、この儘では追い付かれる。
長野は、一か八か、右手に持った子熊を、下へと放った。
親熊は、唸りを上げて、長野と形名に迫った。そして、大きく真赤な口を開け、鋭く吼えると、二人に向かって飛んだ。
――万事休す。
長野は、形名の背を前へ強く突き飛ばすと、覚悟を決めた。




