第111話 ナラネバ
「では、行って参ります」
と、形名が石成と赤猪に向かって頭を下げると、長野と秋野がそれに続いた。
「さあ、形名様、こちらです」
長野と秋野の導きで、形名は、里の裏門を潜り、黒う嶺へと向かう小道を上り始めた。
「布加無曽殿、池邉様との事が思い出されますなあ」
「兄上が熊送りを成し遂げた日の事ですか」
「そう。其方が、池邉様が狩った熊の首を、高々と掲げ、この裏門に現れた時、儂の震えは止まらなんだ。其方等が山に入りて二十日。儂等は其方等が既に亡くのうたものと覚悟を決め、熊送りの儀を取り止めて、探しに行かねばと思うて居った。猪の毛皮を身に纏い、頭上に掲げる熊の首から滴る血を浴びる其方は、暁に照らされ真紅に染まって居った。正に赤猪。その折より、皆が其方の事をそう呼ぶ様に成ったので有ったな」
「黒う嶺で熊を追う日々は身と心を削られます。吾等は死をも覚悟して居りました。特に深山では。彼等には、深山に入る事なく、里山で狩りを成して欲しいものです」
「そうさのう。池邉様は二人で事を成し遂げた。此度は三人、この日の為に熊狩りを経験させた二人を付けて居る。もし狩りが成らねば、形名様は、この国の主としての証を示せなかった、と言う事に成って仕舞いますな」
「血脈を受け継ぐ王としての力の証、ですか。有るでしょう。形名様には。あの、兄上様の子、なのですから」
石成と赤猪は、形名達の後姿を見護った。
数刻の後、南に高く昇った陽は、黒う嶺を覆う若葉を青々と照らした。
「もう暫く歩いて居りますが、熊は何処に居るのでしょうか」
形名は、毛皮の暑さも有り、汗まみれと成って居た。
「形名様、ここは未だ里山の浅き所。人の臭いが残って居りますが故、野生の獣達が現れるは稀に御座います。特に、熊は警戒心が強う御座いますので、深山に餌が無くなりでもせねば、ここへは」
長野は涼しい顔で有った。
「そうですか。では、どの様に熊を見付けるのです」
「里山を隈なく巡り、出会し次第、その場で狩る積りで居ります」
「はぁ」
「兄様、暫し、休みませぬか、吾等は山に慣れて居りますが、形名様は」
秋野が浮かぬ形名に気を遣った。
「そうさなあ、焦っても仕方有るまい。形名様、休みましょう」
長野が言うと、
「形名様、これを」
と秋野は腰から竹水筒を取って形名に手渡した。
「有り難う御座います」
形名は一気に飲み干した。
「あらあら、そんなに乾いて御出ででしたか」
秋野が笑うと、
「はい」
と、形名も微笑み返した。
そして、それを見た長野も笑んだ。
三人に笑みが浮べる余裕が有ったのは、数日の事で有った。
黒う嶺に入って十日。里山を巡り尽したが、熊を探せずに居た。
形名は慣れぬ山歩きに疲れ切って居た。
長野と、秋野は、焦って居た。
この十日は、食事も、睡眠も、十分では無い。そして、里と違い、山の中では、糧を得るのにも身体を使う。長く山で過ごせば体力が削られるのだ。力が無ければ、熊と出会っても、仕留める事が難しく成る。
少しでも早く、熊を見付けねば。ここ数日が勝負だ。
長野と秋野は覚悟を決めた。
「形名様、深山に入りましょう」
長野が申し出た。
「深山に入って、大丈夫なのでしょうか」
「深山は獣界。里山では、吾等が獣を狩る側ですが、深山ではそれが逆と成ります。吾等が獣達の餌と成り、狩られる側と成るのです。ですから、大丈夫では御座りませぬ。しかし、これ以上、里山を探しても、熊に出会う可能性は低いかと。そして、これ以上、山で過ごせば、吾等の体力も尽き、熊狩りは成せませぬ。今、ここで勝負に出るのが肝要かと」
「そうですか。吾にその判断は仕兼ねます。然るが故、長野殿が言うのであれば、それに従います」
「形名様。吾等に御任せ下され。どんな事が有っても、形名様を御護り致します」
秋野が笑顔を作ったが、形名の不安気な顔が緩む事は無かった。
「では、参りましょう」
三人は斜面を、獣の様に四足で進んだ。
「形名様、これが結界石に御座います」
斜面が急と成る手前で、長野が頭程の大きさの石を指差した。
「これが結界石なのですか。私には他の石との区別が付きません」
「神の文字が彫って有りますので」
「これが文字なのですか」
「はい」
石には神代文字が刻まれて居た。
「この石を越えると深山。獣界に御座います。ここからは、決して油断なさらぬ様に、お願い致します」
三人は結界を越えた。
暫く歩むと、
「形名様、身を伏せて下さいませ」
と長野が囁いた。
「如何したのですか」
形名も小さく返した。
「あちらに御座います」
長野が見詰める先へと眼を遣った形名は、
「ひぇっ」
と声を上げた。
「形名様」
と、秋野が咄嗟に形名の口に手を当てた。
視線の先では、一頭の狼が、小刻みに震える鹿の内臓を喰い漁って居た。
狼が、声を上げた形名の方へ視線を向けると同時に、長野は狼へと矢を放ち、これを葬った。
「運が良い。狼が一頭で居るとは。逸れ狼なのでしょう。群れで有らば、吾等は今頃、獣達の餌食と成って居りました。吾等はこの毛皮の御蔭で、人の気を失って居りますが故、人として深山から排除される事は有りませぬ。が、獣界は弱肉強食。弱きものは、皆、強者の餌と成ります。呉々も、気配を悟られぬ様に、お願い致します」
形名は、引き攣った表情の儘、小さく頷いた。




