第100話 ソトガラ
「おお、ヌプリ。今のは何じゃ。吾は夢でも見て居ったのか」
ピリカはヌプリを見詰めて問うた。
ヌプリはピリカに向かって甘い鳴き声を返すのみであった。
「母者は本当に生きて居るのかのう」
ピリカは記憶を確かめた。
「否、やはり、あの時、親父と共に逝った筈じゃ」
ピリカは頷いた。
「それにしても、胸糞の悪い夢じゃ。母者が、イラマンテの伯父きに連れて行かれる何て」
ピリカは、ヌプリを両手で顔の高さに持ち上げると、その眼の奥を覗き込んだ。
「御前ぇの母ちゃんは、巌に連れて行かれちまったんだよな」
(其方の母上も同じだ」)
「えっ」
ピリカは驚いてヌプリを観返したが、ヌプリは嬉しそうに舌を出して荒い息を吐いて居る。
「そんな訳ねぇよな」
(久し振りだのう、ルイの娘よ)
「誰だ。何なんだ。吾は未だ夢を観て居るのか」
(否、夢ではない。儂だ)
「誰だ。ヌプリ、御前、話せるのか」
(そうではない。儂だ。ホロケウカムイ。五年前に其方と話した)
「えっ」
(覚えて居らぬのか)
「何の事じゃ」
(其方がこの毛野に連れて来られ、あの餓鬼と共に逃げ出した夜。狼の群れに襲われ)
「あっ、白狼」
(そうだ)
「親父を知って居ると言って居った」
(そうだ)
「で、どうして」
(其方に救われた)
「如何言う事じゃ」
(儂はこの子狼に転生したのだ)
「全く訳が分からぬ。御前ぇはウタリモシリから、この子狼を通じて吾に話し掛けて居るのではないのか」
(前の外殻が古く成ってな。次のを探して居ったのだが、儂の魂は強大過ぎるが故、普通の子狼に宿ると直ぐに死んでしまう。中々良いのが見つからなかったのだが、やっと探し出し、此奴に宿ったのだ。此奴は脈が良い。此奴が継ぐは、キムンカムイを狩る山の主の血脈だ)
「キムンカムイを狩る山の主って。こいつの親父達は、爺が大野の山のキムンカムイを殺ったから、山の主に成れたんじゃなかったのか」
(違う。此奴の父親達に追われた大野の山のキムンカムイが、里に現れ、大野の村長に討たれたんだ)
「討ったのは村長じゃねぇ。爺じゃ」
(あの爺が村長ではないのか)
「そうじゃ」
(ほう。不思議だのう、人間は。力無きものが長と成れるのか。里の若造に、血脈は継がれて居らぬ。次いで居るのは、未だ、あの爺だ)
「何の事だ」
(其方は血脈を知らぬのか)
「知らぬ」
(まあ、良い。兎に角、此奴の外殻は神獣の外殻で有ったが故、儂は此奴に宿ったのだ。そうしたら、此奴の親達は、儂の存在に感付いた。兄弟共に。これも血の所為かのう。そこで、兄の方が此奴を殺そうとし、此奴の親の弟の方がそれに抗って、殺された。其方が観て居った通りだ。そして、儂は其方に救われた)
「へぇ。で、吾の母者が、ヌプリの母ちゃんと同じってのは何なんだ」
(其方の記憶には呪縛が掛けられて居る)
「何の事だ」
(其方は、シヌエを施され、気を失うた時に、あの老女に母の記憶を封じられたのだ)
「それは何故じゃ」
(それは儂も知らぬ。まぁ、兎に角、命を助けて貰った御礼に、記憶は解き放った)
「他に封じられた記憶は」
(無い。それだけじゃ)
「そうか。で、母者は、母者は生きて居るのじゃな」
(ああ、生きて居る。イラマンテの妻としてな)
「何。嘘だ」
(嘘ではない)
「そんな訳は無い。吾は信じぬ」
ピリカは叫ぶと、闇の中で目が覚めた。
ヌプリはピリカの隣で安らかな寝息を立てて眠っていた。
ここは何処だ。
ピリカは闇を見回した。
まだ夢の中なのか。
ピリカは混乱して居た。
暗闇に眼が慣れると、ピリカはここが猿の館で有ると解り、少し安堵した。
しかし、夢の中で、ホロケウカムイが言った言葉が気に成って居た。
自らの母が、自分をこの毛野に追い遣った、許し難きイラマンテの妻と成り果て、伸う伸うと生きて居る事など、有り得ない。夢だ、夢に違いない。
ピリカはヌプリを観て、
「なあ、御前は本当にホロケウカムイなんか」
と尋ねた。
ヌプリは眠った儘だ。
「そんな訳無いよな」
ピリカは再び眠りに付いた。
それから如何程経ったのか。
ピリカは、ヌプリが頬を舐めて居るのに気が付き、目を覚ました。
母者は生きて居る。
ピリカは確信した。記憶が蘇ったのだ。
「なぁ、ホロケウカムイ。其方の名はヌプリで良いか」
ピリカはヌプリの頭を撫でた。
ヌプリは、嬉しそうに、舌を出して荒く息付き、ピリカを観た。
すると、そこへ、
「ねぇ、姫。起きているの」
と、ペケルが入って来た。
ピリカが返事を返すと、
「形名様が、明後日、帰って来るみたい。姫も、毛野の館に戻らなくてはね」
ペケルは少し寂しそうであった。
「別に、遠くへ行く訳では無い。同じ里の中じゃ。これからも直ぐに会えるじゃろ」
「そうね」
次の日、ピリカは身を綺麗に整えて、猿の館を発ち、毛野の主の館へと入った。




