第1話 ケノクニ
「キヌ」
ヤマトの呼ぶ順わぬ民「エミシ」は、ヤマトの名付けた東国の地をこの名で呼んだ。
キヌはエミシの言葉で葦原。我らの祖がこの地に移り住んだ折には、タンネ川の流れに沿って湿地が広がり、大地は見渡す限り葦に覆われていた。
エミシは山裾に住い、山の恵を享受した。我らの祖は葦原を切り開いて田を築き、稲を作した。エミシと我らの祖との間に争いはなく、互いの産物を交わし共生してきた。
我らの祖は、南海道 木乃国の出自にて、耕した地「キヌ」を故郷の名「キノ」と称した。ヤマトの力が及ぶまでは。
ヤマトも、我らも、稲を育み、米を喰む。ヤマトと我らは、衣服、習俗など多くの慣わしを共にしていた。祀る神以外は。ヤマトは、我らが山を拝むのに対し、日を拝んだ。
古来、ヤマトと我らは各々の神々を各々の祭祀法で祀っていた。
しかし、ある時より、ヤマトは彼らの神と我らの神が同祖であると言い出したのだ。ヤマト曰く、我らの神「オオナムチ」は、彼らの神「アマテラス」の弟「スサノオ」の子孫で、傍若な振る舞いを繰り返し、一族の地を追われたスサノオが、海を渡ってこの地にたどり着き、その後、オオナムチがこの地を統べ、我らの祖がこの地に流れ着いたのだと。その後、幾年月が経ち、ヤマトと我らは、共通の神の子孫として、この地を協力して治めて行く事となった。
一方、ヤマトはエミシに対しては、一貫して不寛容であった。エミシは、全身にシヌエ(文身)を施し、獣の衣を羽織って山野を駆けた。獣を狩り、魚を漁り、木の実を採って日々を凌ぎ、山を怖れ、エミシは大地の全てに神を感じた。ヤマトは、エミシの営みを蔑み、東方の未開人「夷」であると考えていた。そして、ヤマトは、エミシに彼らの嵌める髪飾りが蝦の髭の様に見えた事から「蝦夷」、または彼らの纏う獣毛の衣から「毛人」の字を充てた。ヤマトはエミシにヤマトの神を拝ませ、ヤマトの営みを授け、ヤマトと同化させる事こそが、エミシの幸せと信じていた。しかし、多くのエミシはヤマトには従わず、ヤマトの名付けた、キノより先の地、道奥では、ヤマトとエミシの争いが続いていた。
キノでは、多くのエミシが我らと共に生き、土地の名も、我らはエミシの呼称を用いた。ヤマトは、いつの頃からか、キノを、毛人の住まう土地であるという意を込め、ケノと呼び,毛野の字を充てた。
時は流れ、我らは倭連合王権へと組み込まれ、連合で我らは毛野国を治める国造「毛野氏」と称された。毛野国では倭化が進み、蝦夷の地名、トンネ(長い)川は利根川に、ワッカチャラセ(急流の)川は渡良瀬川に、アカキタイ(山嶺山頂より成る)山は赤城山にと、倭名となった。
倭の大王が推古、大王を支えた厩戸王がこの世を去った頃、毛野の主は形名と成った。
形名の父、池邉が亡くなり、形名が毛野の主と成ったのは十の時。父の死後、分家の長、和気が形名の後見として本家に入った。和気は幼い形名に代わって政務を取り仕切り、倭王権における毛野の地位を高めていった。
倭王権における毛野の役務は蝦夷の同化。未だ順わぬ民を諭し、倭に朝貢させる為に、和気は尽した。
形名が十五の時、和気は一人の娘を毛野の家に迎え入れた。
形名の前へ連れて来られた茶褐色の痩身の娘は唐突に尋ねた。
「おい、貴様、名は何という」
(先に名告るのは連れて来られた君からだろ)
形名は戸惑った。
「おい、名だよ」
娘は揶揄う様に繰り返した。
(だから、質問するのは僕だよ)
形名はじっと娘を見つめた。
もう一度娘が口を開こうとした時、和気が二人の間に割って入り、
「この姫はピリカ。アペの姫、ピリカじゃ。毛野で預かる事となった。形名よ。仲良うせい」
と、この娘が毛野と国境を接する蝦夷「アペ族」の姫である事を、和気は形名に伝えた。
「はい」
形名は頷いた。が、少し混乱していた。
「そなたは形名というのか。この家の主は自ら名告れぬと見える。吾がこの家の主となる日は近いのぉ」
放たれたピリカの大口を分厚い和気の手が覆い、ピリカは奥へと抱え出された。




