第4話 本当の私
帰宅すると、レイリアはすぐさまルークとして食堂に入った。
その後、彼女の一人二役のために父が密かに作らせた秘密の通路を使ってレイリアの部屋に戻り、急いで支度を調える。
一人二役をこなすようになってから、彼女はすっかり早着替えが得意になった。
ルークの時にも長いままにしている髪を結い上げて襟足にはこてを使って巻き髪を作り、化粧は濃いめにアイラインをしっかり描けばかなり印象が変わる。ヴィンスの手を借りてコルセットで腰を締め付け、あらかじめ選んであった真っ赤なドレスを着る。大きく開いた胸元には、大きなルビーの派手なネックレスを付け、きつめの香りの香水を吹けば完璧だ。
ヴィンスが大仰な音を立てて扉を開けると、廊下で仕事に勤しんでいたメイドたちが一斉に振り返った。
レイリアがパチンと音を立てて羽飾りの扇を広げる。その音に、メイドたちがビクリと肩を震わせて、慌てて頭を下げた。
そんな彼女たちを一人ずつ睨みつけながら、レイリアはゆったりとした仕草で廊下を歩きだした。
このとき顎を少し上げておくと、とても性格が悪く見えるとレイリアは既に学んでいる。彼女に睨みつけられたメイドたちが肩を縮こまらせるのを見て、不機嫌そうに眉根を寄せることも忘れない。
今日の演技も完璧だ。だが、レイリアの内心は穏やかではない。
(ごめんなさい。お仕事お疲れ様です。ごめんなさい。ごめんなさい)
キリキリと胃を痛めながら、心の中で謝罪を繰り返す。
いつものことではあるが、レイリアに睨まれて委縮する使用人たちの表情を見ることには、いつまでたっても慣れることはできない。
レイリアが食堂に到着すると、すでに両親も席についていた。もちろんルークの姿はないのだが、食堂の外の使用人がそれに気づく前に、扉が閉まる。
室内にいるのが秘密を知っている人だけになると、レイリアはようやくホッと息を吐いた。いつもならルークに対する暴言の一つも披露するところだが、今日は疲労の方が勝った。
そんな彼女に真っ先の声をかけたのは父だった。
「大丈夫か、レイリア」
心配そうな表情を浮かべる父の隣で、母も眉を八の字に下げている。
レイリアが無理をしていることを二人とも理解しているのだ。だからと言って一人二役を辞めろとも言えず、複雑な心境だろう。
「何も問題ないわよ、安心して」
二人に笑顔を向けながら、レイリアも席についた。ルークの席には、彼の代わりにヴィンスが座る。ルークの分だけ手つかずの皿が戻ってこれば、厨房の料理人たちに怪しまれてしまうからだ。
「今日も完璧。殿下は何も気づいていないわ」
「それならば、よいが……」
父がため息を吐いてワインに口を付ける。それを合図に、料理の配膳が始まった。
月に一回、家族が全員揃う晩餐会は公爵家にとって重要な行事だ。普段よりも豪華な食材を使った料理が次々と運ばれてくる。
ウミガメのスープ、真鱈のソテー、ニシンの稚魚のフリット、アントレはオイスターのパテとリー・ド・ヴォーのポワレ。続いて、メインのローストチキンがテーブルに並ぶ。
「わあ、美味しそう」
レイリアは今日もしっかり働いてきて空腹の限界だったので、黙々と食べ進めた。そんな彼女の様子に両親は呆れながらも、彼女のためにローストチキンを切り分けたのだった。
デザートの洋ナシのコンフォートが供される頃には、レイリアもすっかり満足していた。
そんな彼女に、父が神妙な表情を向ける。
「レイリア」
なにか大事な話があるのだろう。レイリアは居住まいを正して父の方に向き直った。
「何でしょうか、お父様」
「殿下との結婚のことだ」
この言葉に、レイリアの肩がピクリと動いた。あまり積極的に話したい話題ではない。
「そろそろレイリアとの結婚をすすめたいと、改めて国王陛下からお申し出があった」
王子が十八歳を迎えた頃から、似たような話は度々あった。婚約しているのだから、適齢期になったら結婚するのは当たり前だから。
だが、なんだかんだとそれを断り続けてきたのだ。
『ルークが王子の側を離れる準備ができていない』『ルークの生活が長すぎて花嫁修業が追い付いていない』『王子に嫌われているので自信がない』などの言い訳を繰り返してきた。
「殿下もそなたも十八歳。これ以上、先延ばしにはできない」
父の言葉に、レイリアは思わず顔を俯かせてしまった。
「心境は複雑だろうが受け入れるしかない。来年の春に結婚式を挙げる。よいな?」
「……はい」
レイリアは素直に頷いた。
来年の春ということは、結婚式まで半年とすこしだ。
(大切に過ごそう)
王子と共にいられる、最後の時間を。
いや、王子だけではない。
両親とも、ヴィンスとも、来年の春までに決別することになる。
王子とは結婚しない。彼女は、そう決めているのだ。
彼を愛しているから──。
レイリアが王子に想いを寄せるようになったのは、いつ頃のことだろうか。
彼女の記憶は曖昧で、いつの間にか、という表現がしっくりくる。
五歳で出会ってから、レイリアと王子は多くの時間を共に過ごしてきた。
それは、彼女が王子のことを理解するのに十分な時間だった。
王子は口数が少なく感情表現の苦手な子供だったが、それとは裏腹に人の感情には敏感だった。自分のことを嫌っている人物、敵意を向けて来る人物、媚びを売るだけで本心では馬鹿にしてくる人物……そういう人をすぐに察してしまうため、どんどん孤独になっていったのだ。
そんな王子が、レイリアとだけは一緒にいたいと言う。
それはもちろん、レイリアが王子に対して二心を持っていなかったからだ。
彼女にとっても、王子は初めての友達だったから。
レイリアは公爵家の一人娘として生まれ、父も母も彼女を蝶よ花よと大切に育てた。欲しいものなら、なんでも与えてくれた。
親族や他の高位貴族から選び抜かれた、女友達も。
だが、誰も本当のレイリアを見てはくれなかった。
誰も彼もが彼女に気に入られようと媚びへつらい、誰一人として心からの笑顔を向けてはくれなかったのだ。
王子と同じ。レイリアも孤独だった。
そんな二人が、男同士として出会ったのは運命だったのかもしれない。
王子だけは──ルークという仮面を通してだが──公爵令嬢ではなく、レイリアという人を見てくれた。
ある日、一緒に昼食をとっていると、サラダにブロッコリーが入っていた。レイリアは実はブロッコリーが大の苦手だったが、いつも通り何でもない表情で食べていた。そんな彼女の皿から、王子が無言でブロッコリーを取り上げたのだ。
「無理に笑うな」
口をへの字に曲げた王子に言われて、驚きとともに感じたのは、喜びだった。
彼だけが気づいてくれたのだ。
冒険小説が好きなこと、かけっこが大好きなこと、虫取りが得意なこと……。
王子と一緒に過ごせば過ごすほど、レイリア自身も本当の自分に出会うことができた。
本当の彼女を、王子が見つけてくれるから。
幼い頃はこうして純粋に友達として王子を慕っていた。
その気持ちが思春期を迎える頃には恋心に変化していったのは、むしろ自然なことのように思う。レイリアは、いつか王子と結婚して、永遠に共に過ごすことを夢見るようになっていた。
だが、大人に近い年齢になると、ふと気が付いたのだ。
王子が見ているのは、『男友達のルーク』。そして、『悪女レイリア』だ。
どちらも本当の彼女ではない。
ルークとして王子の側近を続けたとしても、レイリアとして王子と結婚したとしても、そこにあるのは嘘にまみれた虚像だけ。
そんな自分に、彼と結婚する資格などない。
そもそも王子はレイリアのことを嫌っているのだ。そんな女と結婚しても、彼が幸せになれるとは思えない。
だから、レイリアは決めたのだ。
時が来たら、ルークもレイリアも。
その存在を、この世界から消してしまおう、と。
今日、とうとうその期限が決まった。
来年の春。それまでに、二人は王子の前から姿を消さなければならない。
その晩、レイリアは一人涙を流して眠れぬ夜を過ごしたのだった。
翌日、夜明け前にベッドから起き出したレイリアは、早々に出勤して例の密輸の件を調べようと思ったのだが、予定通りにはいかなかった。
──とある貴族が、殺されているのが発見されたからだ。




