第3話 親友の役目
「戻りました」
「ああ」
ルークが執務室に戻ると、王子は相変わらずの無表情で淡々と仕事をこなしていた。彼の体勢はルークが部屋を出た時のまま変わっていなかったが、机の上の書類はだいぶ少なくなっている。
「ノルヴァンディアからの小麦の輸入量の資料です」
ルークもまた無駄話を挟んだりせず、すぐさま運んできた資料を提出した。ただし、資料を運ぶだけなどという子どものお使いのような仕事に意味はない。
「輸入量は三年前から徐々に減っていますね」
王子は書類にペンを走らせたままだが、それには構わずルークは報告を続けた。これも、いつものことだ。
「三年前、国内の小麦の価格の暴落を防ぐために、関税をかけた影響です。おかげで国内の小麦の価格は持ち直しましたが……」
資料を一枚めくる。ここから先は頼まれた資料ではない、いわば補足だ。真実を明らかにするための。
「この数か月で、西側の地域から徐々に小麦の価格が下がり始めています。昨年は不作で、本来であれば価格は上がるはずの時期なのに。各領地の備蓄報告も参照してみましたが、これまでの不作の年と比較して、どうも減りが少ないようです」
ここまで話すと、ようやく王子がペンを走らせていた手を止めて顔を上げた。
「密輸か」
「その可能性が高いと思われます。我が国の不作につけ込んで、儲けを出そうとしているのでしょう」
「ノルヴァンディア政府が絡んでいるのか?」
「さて。もう少し調べてみないとなんとも。あの国は商人の権力が強いですから、商人側の独断かも」
「調査を続けろ」
「承知しました」
軽く頷いてから、ルークはさっと自分の席に座った。王子に提出した以外にも、大量の資料を仕入れてきたのだ。この資料から、何か分かるかもしれない。
こうして今日も、日が沈むまで二人は淡々と仕事を続けた。
「時間だ」
王子がルークに声をかけたのは、午後五時。官僚たちが仕事を終える定時ちょうどだった。
「もうそんな時間?」
「ああ」
「そっかあ……今日も、よく働いたあ……!」
ルークが大きく伸びをしている横で、王子がポットを手に取るのが見えた。自ら紅茶のおかわりを入れるらしい。
王子は人の出入りが多いのを嫌うため、この部屋には侍従も侍女も寄り付かない。ただし、まったくの放置というわけにもいかないので、朝と昼に紅茶と軽食が運ばれてくる。王子とルークは、そのワゴンから自分で紅茶をいれるのだ。
本来であればルークがやるべきなのだろうが、二人の間ではそういう堅苦しい上下関係はないに等しい。
「エディはまだやっていくの?」
仕事の時間が終わって二人きりになると、ルークは王子をエディと呼び、砕けた口調で話す。幼い頃、ただの友達だった頃と同じように。
「そうだな。今夜は特に用事もない」
「それじゃあ僕も。もう少しでこの資料を洗い終わるんだ」
言いながら、ルークも自ら紅茶のおかわりを注いだ。すっかり冷めてしまっているが、王家御用達の茶葉の香りは健在だ。
「そうか」
それっきり、王子は何も言わなかった。
だが、ルークの方は全く気にも留めなかった。なぜなら、言葉数が少ないのはいつものことだから。
彼は思っていることの十分の一も言葉にしない。
出会った頃からずっとそうなので、ルークはそれをよく理解している。だが、親しくない相手には誤解されがちだ。国民や多くの臣下からは寡黙で厳格な人物だと思われている。
王子が今も沈黙していることに深い意味はない。さっさと休憩を終わらせて仕事を再開しようと思っているだけなのだが、人によっては怒っているようにも見えるかもしれない。
そんな時、彼をフォローするのもルークの役目だ。
誤解されがちで不器用な王子と、彼との関り方に戸惑う人との間を取り持ち、良好な関係を築けるように立ち回ってきた。
そのおかげで、仕事の話であれば、王子はルーク以外の人とも問題なくやり取りができるようになったし、いずれ彼の臣下となるべき信頼できる若者とも繋がりを持つことができた。
ルークは、彼に与えられた役割を十二分に果たしていると言えるだろう。
二人は無言のまま冷めた紅茶で喉を潤してから、やはり無言のまま仕事を再開した。
その数分後、執務室の扉が無遠慮に開かれた。
「ルークはいるか」
入って来たのは、琥珀色の瞳が印象的な長身の青年だった。
彼の名はヴィンス・ローウェル。ルークよりもいくつか年上の彼は、公爵家の親族ローウェル伯爵家の次男で、公爵家本家に仕えている。表向きの役割としてはルークの従者のようなことをしているが、実際にはレイリアの護衛が彼の仕事だ。
といっても、レイリアとヴィンスは幼い頃から共に育ってきたので、主従というよりも友人関係に近い。ルークの時もレイリアの時も、お互いに気安い言葉遣いで話している。王子が同じ部屋にいてもお構いなしだ。
「ヴィンス、どうかしたの?」
驚いて首を傾げるルークに、ヴィンスがため息を吐く。
「今夜の約束、忘れているな?」
「約束?」
「公爵ご夫妻とレイリア嬢と、晩餐の予定だろう」
「……あ!」
そうだったと、ルークは慌てて立ち上がった。
「遅れるとレイリア嬢がまた癇癪を起こすぞ」
「分かってるよ、ごめん」
言いながら、机の上で山積みになっている書類を申し訳程度に整理した。
「エディ、続きはまた明日。早めに来て報告書を作るよ」
「ああ」
「それじゃあ」
王子が軽く頷いたのを確認してから、レイリアは急いで執務室を出た。
ヴィンスと二人連れ立って静かな廊下を歩く。官僚のほとんどは貴族の子弟であり、彼らは好き好んで残業などしないので、定時を過ぎると人気はほとんどなくなるのだ。
周囲を見回して人がいないことを確認したヴィンスが、そっとレイリアの耳元に顔を寄せた。
「……自分で用意したアリバイを忘れるなよ」
そのひそひそ声に、レイリアは肩を竦めた。
今夜の晩餐は、『ルーク』と『レイリア』という二人の人物が実在することを公爵家の内外に示すためのアリバイづくりだ。
ルークとして食堂に入った後、密かに部屋に戻ってドレスに着替え、レイリアとして再び食堂に入る手はずになっている。食堂の中で給仕をするのは秘密を知っている年かさの執事とメイドの二人だけなので、他の使用人にはルークとレイリアが共に食堂の中に存在しているように見えるというわけだ。さらに食堂の中からルークに対して癇癪を起こすレイリアの声を聞かせてやれば完璧だ。
レイリアは秘密を守るために、こうした催しを定期的に行っている。
おかげで、この秘密を知っているのは国王と公爵夫妻、ヴィンス、そして少数の使用人だけに留められている。
「急ぎの仕事があったんだ」
「公爵家の嫡男がそんなあくせく働くな」
「そうは言っても、王子の側近だし」
「ずっと続けるわけじゃないんだ、適当にこなせよ」
「それは、そうだけど……」
ヴィンスの言うことはもっともだ。
ルークはいずれ王子のもとを去るのだから、仕事などほどほどにすべきだ。
だが、レイリアにはそうしたくない理由があった。
「どれだけ頑張っても、今のままではいられないんだ。諦めろ」
ずばり痛いところを突かれて、レイリアは唇を引き結んだ。
「ルークの仕事が好きなのは分かるけどな、お前はレイリアなんだから」
レイリアは、王子の側近として働くのが好きだ。彼に頼られて、彼のために仕事ができることに充実感を覚えている。同時に、王子の友人でいられることが何よりも彼女の喜びだった。
いずれ君主となる彼のことを、臣下の一人として心から敬愛しているのだ。
だが、ヴィンスの言う通り、これはまったくの不毛な想いだ。
ルークはいずれ消える。
それは、絶対に変えられない決定事項なのだから。
「まったく」
ヴィンスが無遠慮にレイリアの頭を撫ぜた。髪が乱れるのにも構わず、がしがしと。
「ちょっと!」
「どうせ結婚するんだ。深く考えるなよ」
「……分かってる」
レイリアはいずれ王子と結婚する。それも決定事項だ。
ルークは消えても、レイリアは、ずっと王子と一緒に居られる。
(名目上は、ね……)
心の中でそっとつぶやいた。同時に、レイリアの胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだのだった。




