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その想いは恋、そして

(懐かしい……)


 アトリエとは名ばかりの物置小屋の扉を開けて、花蓮はなかに足を踏み入れた。

 帰国後に早速ここを使っているらしく、テレピン油の匂いが花蓮の鼻を刺激してくる。

 条件反射と言ってもいいだろう。その匂いで夏の記憶が鮮明に蘇ってきた。五年前の出来事とは思えないほどはっきりと。

 花蓮のなかの想いは今でも色鮮やかなものなのだ。

 仕事に追われて、時折頭のなかから抜け落ちてしまうものの、それを意識するほど焼き付いている存在。


 ――会いたかった……


 アトリエの主は不在らしい。手探りで電気を点けて、周囲を見渡した。

 昔と同じ位置に立てられたイーゼルが姿を現した。また新しいキャンバスがかけられている。

 しかも、そこには自分の姿が描かれていて、花蓮は特別な魔力に引き寄せられた。


 スケッチブックと同じで、五年後の、今現在の花蓮の姿が描かれていた。、目を瞠り、息をするのも忘れる。モデルもなしにここまで描けるとは、これがプロの技術かと感心した。


 顔を覚えていてくれたのだと嬉しくなった。

 長峰の絵のタッチを見てホッとする。彼の筆運びは変わっていないらしい。でも、どうせ描いてもらうのならば、またモデルをやりたかったというのが花蓮の本音だ。


「……?」


 背後の空気の流れが途絶えた気がして振り返る。

 そこには、興奮気味の長峰が立っていた。蓮実が言ったとおり、風貌は五年前とあまり変わっていない。いや、髭がのび始めて「ヒゲもじゃ」が復活している。

 激しい息づかいと紅潮した顔。

 暦は十一月だというのに、長峰の額には汗が浮かんでいた。

 五年ぶりの再会なのに、ろくな思い浮かばない。イメージトレーニングやシミュテーションくらいしておけばよかったと花蓮は後悔した。


「長峰さん、走ってきたの?」

「アトリエの電気が点いたから、まさかと思って走ってきた」

「……空き巣と間違えたとか?」

「いや、そうじゃなくて――」


 まだ、長峰の息は荒い。花蓮を納得させる説明ができそうにないのか乱暴に頭を掻いた。彼が言わんとする言葉がわからず、花蓮は自分から話を切り出した。


「コレ、蓮実から受け取ったよ。ちゃんと五年分年とってるのも描いてあったから驚いた」

「それか……俺もこないだ帰国してから色んな意味で驚いた」


 額の汗を拭いながら長峰が答える。


「妹、でかくなったな。背格好もほとんどお前と同じだろ。男連れだったし、最初お前と見間違えた」


 うん、と花蓮は頷いた。もし、男性を連れていたのが自分だったら彼はどうしただろう?


「それと、怪奇シリーズのドラマ見たぞ。あんまり出番ないのな」

「あれは、準レギュラーだから……後半から台詞増えたから、見るなら最後までチェックして」


 それは、去年放映されたドラマの再放送のことだ。主人公の妹役なので、三話中に自分の出番が数カットあるかないかだったが、後半脚本家が出番を増やしてくれた。

 まさか長峰が自分が出演している番組を視聴していたとは思わなかった。


「まだまだ駆け出しだもん。でも、そのうち朝ドラに出たらすぐメジャーになるもん」

「出るのか?」

「まだオーディションも受けてないけど……」


 「なんだよ……」と長峰はあからさまに安堵している。花蓮は軽い冗談のつもりだったが、帰国から間もない長峰は本気にしてしまったらしい。


「夢は大きいほうがいいって言うじゃない? 潰されない程度の夢を少しずつ実現していくつもりなんだ」


 会話の主導権をとられてはなるまいと花蓮は必死に食い下がる。なぜ、そこまで必死なのかはよくわからない。


「夢は大きい、か。見つけられたんだな?」

「今は、そうだと思う。でも、またちがう夢ができるかもしれない」


 五年前からはじめた芸能活動だが、周囲のサポートがあったとはいえよく続けてこられたものだと花蓮自身が驚いている。

 努力の甲斐もあったが、自分の性格に合っていたのかもしれない。

 しかし、五年のうちに学んだことはたくさなった。

 それは、夢がひとつとも限らないということだ。


「先輩の女優さんでも、お母さんしながら役者を続けてる人もいるし、役作りがきっかけで陶芸家になっちゃった人もいた。海外の映画に出たいから英語の勉強をして、国際結婚した俳優さんもいたの。みんな最初は、そんなつもりで夢を見てたわけじゃないんだよね」


 話しているうちに、自分も同じだと花蓮は思う。

 長峰に追いつきたい、彼に認められたいと頑張っていたが、今は演じる楽しさを知ってしまった。長峰に再会できなくても、この道でやっていきたいと考えるようになっていたのだ。


「私は、あの時ほど長峰さんのことを好きじゃないかもしれない。長峰さんが手紙に書いてたよね、私は飽きっぽいって」


 仕事のことを考えすぎて、長峰のことを完全に忘れている自分に気づいたとき、薄情に思ったこともある。だが、すぐに思い出せるほど彼の存在は大きかった。

 自分のことがわかっていないのに、相手とのちがいなんてわからない。スタート地点は自分を知ることだった。次いで大事だったのは、自分の気持ちに耳を傾けること。


今ならばわかることがある。言葉を紡ぐ花蓮の唇が震えていた。


「それでも、長峰さんと一緒の時間がほしいの」

「女優を続けながら、か?」


 落ち着き払った長峰の声が問いかけくる。突き放されているのだろうか、そう思うだけでも花蓮の胸は締めつけられる。


「そうだよ……私、欲張りになったから。長峰さんだって絵を描きに海外まで行っちゃったじゃない?」

 皮肉のつもりで言ってやれば、長峰はバツが悪そうに目を逸らした。


「これが今の私なの。五年前に一人前の女になって、長峰さんのこと振り向かせたいって頑張ってきた。逃がした魚は大きかったって、後悔してほしかったの!」


 もう泣きそうだ。

 カメラの映り具合に気を配ることができても、今は彼の前でどんな顔をしているのかもわからない。きっとギリギリの、切羽詰まった顔だ。


「それ、間違ってるぞ」


 長峰が花蓮の言葉尻を捕まえる。


「逃がしたってことは、お前がフラれたことが前提だろう」

「だって、子どもと恋愛ごっこする気はないって言ってたじゃない!」


 だから、相手にできないと。それで絵を優先すると考えていた。花蓮が大人になれば考え直すような言葉に思えたが。


「お前も時間が経てば、気が変わることもあると思った」


 たしかに五年は長かった。長峰を忘れかけて、忘れてしまいたいと思ったこともある。


「時間が必要だったのは、お前だけじゃない」

「どういう意味?」

「お前、五年前はいくつだった?」


 問われて十六と即答する。なぜ年齢の話を持ち出してきたのか花蓮はわからない。やはり幼すぎて恋愛対象ではなかったと言いたいのだろうか。子ども相手にその気になれないと。


「十八歳未満が相手だと淫行条例にひっかかるんだよ」

「い、淫行?」


 聞いたことがある気もするが、どこか他人事で気にも留めていなかった。


「とにかく、大人が当時のお前に手なんて出したら、法律にふれる」

「え、逮捕されちゃうの?」


 当然だといわんばかりの長峰の様子に、花蓮は再度頭のなかの情報を整理する。「高校生」という括りで十六歳も十八歳も同じだと花蓮は思っていた。妹やその恋人の交際が節度ある状態を保っているのはそのためだったのか――少し合点が入った。


「そこまでのリスクを背負って、お前を受け入れたところで結局一時的なものなら、お互いに傷つくだけだ」


 傷つく、という言葉は長峰にとってどういう意味なのか。それは条例にふれる行為に及ぶことなのか。彼も心に傷を負うということなのか。


「そんなに考えることなの?」

「当然だろ。自分自身が血迷ってるかもしれないと思ったからな。女子高生相手に本気になるはずがないと思ってた」


 黙って長峰の言葉の続きを待った。彼は花蓮の視線を正面から受け止める。

 だが、すぐに彼の目が泳いだ。あの夏にときどき見かけた表情。言いにくいことがある時、話題を変えたいときの目だ。黙って見ているのがもどかしくなってしまう。


「それで?」

「時間がほしかった。一時的な熱ならば、時間が経てば冷める。それがお互いのためだってな」


 花蓮に頭を冷やせと言っているだけではなく、長峰自身を戒める時間だったらしい。長峰が自分に気持ちを残していたとすれば、花蓮が聞きたいことはひとつだけだ。


「五年で、長峰さんの熱は冷めた?」


 長峰は驚愕の表情で花蓮を見た。答えに困っているのがわかる。


「結果は、それだ」


 彼が顎でクイと指し示したのは花蓮の手にあるスケッチブックだった。


『言葉のいらない表現もたしかにあるんだね』


 蓮実の言葉を思い出して、その意味をようやく掴んだ。実物がいなくても、スケッチが描けるほど彼のなかに自分がいた――より鮮明な姿で。


「ねぇ、じゃあ受けて立ってやるって、あれ……嘘じゃないんでしょう?」

「ああ」

「今度は、逃げたりしないよね?」


 逃げるという単語に、長峰は明らかに不満そうな顔をした。花蓮は彼のそんな表情にも怯まない。五年という月日で少女は強くなったのだ。


「逃げてない。ちゃんとこうして帰ってきただろ」

「だからって五年は長すぎるよ! 私のほうが逃げ出したくなった!」


 堪えていた気持ちが爆発した。まわりくどい言葉ばかりで、肝心な長峰の気持ちははっきりと言ってもらえない。

 苛立ちを覚え、長峰に背を向けようとすると腕を掴まれ引き戻された。


「お前が逃げてどうする」


 自分なりの言い分を並べようとしたが、長峰の腕のなかに閉じ込められて反撃の機会を失ってしまう。身じろぎしようにも、きつく抱きしめられて敵わない。


「お前からこっちに来た以上、もう逃げようとしても逃がさないからな」


 耳元で囁かれた言葉に、花蓮の思考が停止した。待つことから逃げ出したいと思ったことはあるが、長峰から逃げたいという気持ちはない。


 自分が長峰に抱きしめられている。雷に怯えて長峰にしがみついたあの日とは真逆の状況だ。本当に逃げ出しても捕まえてくれるだろうか――そんな意地悪い気持ちが湧かないこともない。


「もう少し、気の利いたこと言ってもらえる? 五年もあったのに、これぞって台詞は用意してなかったの?」


 窮屈な体勢から長峰を見上げれば、彼は呆気にとられている。


「そこまで言う女じゃなかっただろ」

「腹括ってるから♪」


 妙に色気を醸す上目遣いに長峰がたじろいだ。溜息をつきながら花蓮を腕のなかから解放する。

 軽く咳払いをしてから長峰が言った。


「俺の絵の専属モデルになれ」

「……仕事のことは事務所を通さないと」

「!?」


 素早い切り返しに、面食らった長峰の額に、妙な汗が滲んできた。花蓮は是が非でも、彼から何かしら引き出したい。意地ではなく、女性としての欲と言うべきだ。


「そんなの個人契約に決まってるだろうが!」

「じゃあ、報酬は?」


 花蓮は試すような目で長峰を見つめる。報酬。懐かしい響きだ。かつて長峰にキスされた時にもそんな言葉を使われたのを思い出した。それを今は自分が使って彼に詰め寄っている。

 長峰は諦めたように息を吐いた。


「俺のプライベートな時間ではどうだ?」


 一緒にいる時間が欲しいという花蓮の要求に応える提案だ。でも、それでは物足りない。


「事前に一部謝礼をいただければ、契約を結んでもいいけど?」


 何だそれは、と長峰は眉を顰めた。


「とりあえず、今から明日の朝まで長峰さんを貸し切るってことで」

「ちょっと待て!」


 いよいよ長峰が慌てて花蓮のペースを打ち破ろうとする。


「今からって、正気かよ?」

「私、明日まで仕事オフだもの。っていうか、また明後日からは会えないの」

「いや、そういうことじゃなくて」


 動揺する長峰の顔が赤くなってきた。どこまで先の展開を想像しているのか。


「嫌なの?」


 暢気な、でも拒絶できない花蓮の声色に長峰が閉口した。最初から、抵抗する気はないかもしれない。沈黙を同意と受け取って、花蓮は茶目っ気たっぷりの笑顔をつくる。


「それじゃ、契約成立ね!」


 もう、簡単にめげたり、俯いたりしない。花蓮は前を向いて自分の道を進もうと決めたのだ。仕事も、恋も。

 いや、もう夏の日に抱いた恋心とはちがう。


「よろしくお願いします」


 花蓮が、改めて握手を求めた。五年前に絵のモデルを頼まれた時には挨拶もそこそこだったのに。長峰は難しい顔をして差し出された白い手を見つめる。強がってはいるが、彼の沈黙は何よりも花蓮の不安を煽る。


「やっぱりやめておく?」


 花蓮は遠慮がちに尋ねた。長峰が視線を彼女の手から顔へと移す。花蓮の睫毛の震えに、彼は気づいただろうか。

 長峰はおもむろに花蓮の手を握り返すと、互いの額が擦り合う距離に華奢な体を引き寄せる。

 自信たっぷりの笑みが、花蓮の視界いっぱいに広がった。


「逃がさないって言っただろ」


 鼻に噛みつかれるかと思うほど、彼の吐息を感じて花蓮は肩を竦めた。長峰の空いたほうの節高な指が彼女の頬にふれる。自分には駆け引きの経験が足りないと花蓮は自覚したが、今から学べばいいだけだ。花蓮は覚悟を決めて目を閉じた。


「まず、五年待ったぶんの報酬だ」


 言い終わった直後にどちらからともなく唇が重なった。

 

 あの夏の想いは、たしかに淡い恋だった。

 時間ときを経て、恋は別の形に変わりはじめる。




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