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月日は流れて

 長峰の言う「そのうち」がどれほどの時間を指すのか、まったくあてにならないことを花蓮は知った。

 彼は本当にフランスに旅立ったようあが、何の音沙汰もない。伯母・鞠絵から聞いた話では、長峰は携帯電話、スマートフォンの類は一切持っていないらしい。

 海に隔てられてもツールさえあれば、自分から呼びかけるチャンスもあるのでは……という花蓮の淡い期待はあっけなく裏切られてしまった。


 落ち込みもしたが、花蓮の楽観的な性格が功を奏した。待つだけでは時間を無駄にする。

 長峰を待っている間の時間は、花蓮の人生のなかでも激変の時代でもあり、どう生きるかで精一杯もがいた日々だ。

 ときには長峰の存在すら忘れてしまうほど目の前の出来事に夢中になっていた。

 そう、夢中になって我を忘れてしまいそうなほどの夢が、今の花蓮にはある。

 だからこそ、月日が経つのがあっという間に思えた。

 

 五年という月日は――。




「あなたが彼を殺したんですね?」


 トレンチコートを羽織った中年男性は眼光鋭く花蓮に詰め寄った。

 探偵の背後ではシートをかけられた犠牲者が担架に乗せられて運び出される。その光景を見届けてから、真一文字に引き結ばれた花蓮の口が緩んだ。

 ガタガタと震えだし、涙声で言葉を振り絞る。

 追いつめられた者が、陥落する瞬間だ。


「はい……私が、私が彼を殺しました。彼を奪ったあの女も! 彼を失いたくなかった! あんな薄汚い泥棒ネコに奪われるなんて耐えられなかった……奪われるくらいなら、だから……だから――」


 ひた隠しにしてきた泥のような恨みを吐き出し、真相を指摘した男・私立探偵を睨みつけた。


「私は後悔なんてしてません。もう彼は、誰の手にも届かないところへ行ってしまったんです」


 狂気の笑みを浮かべた花蓮は、自分の両脇に張りついていた刑事たちに誘導されて犯行現場となった部屋を去っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、探偵はつぶやいた。


「……女は怖いけど、悲しいもんだな」


 男の言葉を最後に、空気が一気に張り詰め、そして。


「カァーット! OK!」


 監督の張り上げた声であたりの緊張感が四散した。

 花蓮はもとより、探偵さえも安堵感から笑顔を浮かべていた。


「以上を持ちまして、白石さゆり役の望月もちづき花蓮かれんさん、オールアップです!」


 セットの組まれた撮影スタジオに助監督の声が響く。スタッフの拍手が続いた。

 オールアップ。つまり、花蓮はすべての登場シーンを撮り終えたのだ。


「ありがとうございました!」


 探偵、正確には探偵役の主演俳優から花束を渡された花蓮はその場にいた出演者、スタッフに深々と頭を下げた。

 自分の出演場面の撮影が終わると寂しさ半分、残りは役柄から解放される安堵感でいっぱいになる。

 遠巻きに彼女を見守っている男性は花蓮の所属事務所の専務――ショッピングモールで十六歳の花蓮をスカウトした人物だった――を見つけて、花蓮は笑顔で駆け寄った。


「松山さん、来てくれたんですか?」

「そりゃ、花蓮が初の二時間ドラマ出演作だからね、最終日は見届けたくて来ちゃったよ」

 父親とそう変わりない年齢の松山は、自分の娘のように喜んでくれている。


 高校の演劇部の活動と、自分のやる気との温度差は埋まらないと悟った花蓮は、二学期の終わりを待たずに退部した。


 代わりに母に頼み込んで芸能プロダクションの研究生としてレッスンに励むことことになったのだ。

 かつて母が所属していた事務所であり、夏休みにショッピングモールで花蓮に声をかけたスカウトマンの会社でもある。


 母と舞台鑑賞から帰宅すると、実在する会社であることはもちろん、母も現役時代に面識がある人物と覚えていた。


 懐かしがった母親は、せっかくだから連絡だけでもとってみればいいと花蓮に勧めたほどだ。

 チャンスを無駄にしないこと。

 母からの言葉を実践すべく、花蓮はダメもとで電話をかけてみた。このテの名刺は、同じ年頃の女のコに配っているだろうと思っていたが、相手は花蓮のことをよく覚えていた。

 松山氏は、自分が詐欺まがいの人間ではないことを証明するためにも保護者と一緒に事務所へ来るように勧めてくれた。

 しかし、母同伴でプロダクションへ出向いたときの当時のスカウトマン・松山氏の驚きようは見物みものだった。

 望月花帆という女優に似ていると思ったが、花蓮が実の娘とは想像できなかったようだ。


 とんとん拍子で話は進み、花蓮自身の要望で事務所の養成所に入ることが決まった。

 最初の頃はレッスンも厳しくて何度も挫折しかけたが、もう簡単に諦める花蓮ではなくなっていた。

 家族の応援も支えだった。とりわけ母は、自分と同じ道を歩きだした娘に飴と鞭を使ってうまく導いてくれたし、蓮実も花蓮が理解できない舞台やドラマの作品設定の解説をしてサポートしてくれる。父は芸能界入りに難色を示したが、自分の仕事だけを棚に上げるわけにもいかず、黙って見守ってくれている。


 研究生時代は目立った仕事をもらえなかったが、研究期間を終えて事務所との契約を更新できたは養成所内でも一握りの人間だった。

 同じ事務所の先輩俳優たちのバーターとしてエキストラの仕事もこなした。

 台詞のついてる役者の後ろにいる友人その一、といった類の役柄が何度も続いたし、事務所に頼んで小規模な劇団の公演にも参加させてもらった。


 以前母と舞台を観に行った内田氏主宰の劇団には何度も世話になり、芝居にのめり込むようなっていったのだ。

 周囲のバランスをはかり、芝居の間合いを掴めるようになったころから、端役でも台詞がつくものが増えはじめた。


 今回は舞台の演出家から抜擢されてのドラマ出演だ。

 台詞も多いうえにミステリーの犯人役。当然画面に映る回数も多かった。何より犯罪者の心理は奥が深く、役柄を掴むのに苦戦したが演じているときの充実感はたまらない。


「そろそろ、花蓮も朝ドラのオーディション受けてみないか?」

「あの話、本気で言ってたんですか? こないだから和田さんに言われてたけど」


 最近は事務所から積極的に規模の大きな作品のオーディションを受けるように勧められている。

 和田マネージャーは最近花蓮の担当になった敏腕女性社員で、花蓮の売り込みに躍起になっているのだ。

 当の本人は地道にキャリアを積もうと考えていたので、一気に知名度が上がる全国ネットのドラマシリーズには抵抗がある。

 それじゃなくても、わりとスケジュールが立て込んでいて、まともな休みがとれていない。この撮影が終わると同時に二日間の貴重なオフに切り替わっているので、早く家に帰って睡眠をとりたい。


「よく考えといてくれよ。他のヤツらにも発破かけるつもりでさ」

「考えておきます」


 出演者やスタッフへの挨拶を終えると、花蓮は速やかに撮影場を後にした。

 昔の自分のように端役にありついた十代の後輩が頭を下げてくる。五年前の自分よりも礼儀正しいし、しっかりしているので、当時の自分がどれほど幼稚な子どもだったか思い知らされるのだ。


 広い世界に飛び出すと、どれだけ自分が小さい存在で、足りないものだらけであることを知った。 それに気づいたときから、花蓮はもうじっとしていられなくなった。

 今すぐにでも行動しなくては――そう思ったときから、花蓮は目的がない生活と決別できたのだ。



「ただいま!」


 花蓮が晴れ晴れとした笑顔で自宅の玄関を潜る。

 暖房のおかげで、凍えた体の緊張を解していった。十一月とはいえ防寒対策は欠かせない。


「はぁ~っ! 早速オフが半日潰れちゃった」


 リビングのソファーにどっかと腰を下ろして花蓮は大きく伸びをする。


「仕方ないでしょ、ドラマの撮影にはよくあることよ」


 そう諭したのは花蓮の母、元女優の花帆かほだ。四十代にしては若々しい。近所では『美魔女』で通っているし、周囲から評価されようと母はマイペースな人だ。

 旧知の役者仲間から復帰を勧められたのは嬉しかったようだが……「私が現場に復帰したら、アンタのほうが霞むでしょう!」と言われてしまった。


「朝食と言っても、もうランチになっちゃうけど用意できてるわよ。食べる?」

「あ~助かる! ぜひ、いただきます!」


 ダイニングテーブルに食事が配膳されるまで、花蓮は次回作の台本に目を通す。

 チャーハンと白菜の中華スープ。タンパク質を摂取できるように卵と刻んだ叉焼がたっぷり入っている母特製の中華セットメニューだ。


「今日日曜日だよね、蓮実は?」


 高校生になった蓮実は、相変わらず有言実行の人間だ。中学受験が終わってから応募した小説がとあるコンテストで入賞し、プロデビューを果たしている。

 高校生と作家の二足のわらじで忙しいはずだが、周囲にそんな慌ただしさを微塵も感じさせない。


「夏目くんとデート。芸術展だかアート系のイベントに行くんだって」

「へぇ~、うまくいってるんだ!」


 蓮実が、高校二年に進級してからとある男性とつきあうと突然家族に報告してきた。

 共学校に入っても男子生徒には関心のない様子に、恋愛よりも作家業を重視していくと思い込んでいた家族にとっては晴天の霹靂だ。


 母親だけは蓮実の変化に気づいていたらしい。週末、図書館へ行くだけなのに、服装やメイクなどやたら気にしている――母の言葉を借りれば、色気づいた、という。

 そんな妹の選んだ相手が、本人よりも十歳以上も年上なのだからさらに驚いた。大人びた蓮実の印象から、同級生の男のコよりも年上とのほうが釣り合いがとれるとは思っていたが、花蓮の想像を容易に越えてしまった。

 だが、どれほど冷静な性格でも年相応に好きな人のことで一喜一憂している妹は可愛らしい。

 家族の心配をよそに、交際は順調なようだ。


「ちゃっかりしてるよね、蓮実も。年上を選ぶあたりは安定志向の現れかな?」

「アンタたちが小さかったころ、お父さんの仕事が忙しくて家にいないことが多かったから、無意識に父性愛を求めちゃうのかもね」


 なるほど、と母の見解を頷いて聞いていると、思ってもいないしっぺ返しが待っていた。


「花蓮、アンタも人のこと言えるの?」

「はぁ? だって、私は熱愛予定ないし、今派手に騒がれる身分じゃないですよ~だ!」


 母が、自分と長峰とのことをどれくらい知っているかわからない。

 蓮実や鞠絵から、どんな形であの夏のできごとが母の耳に入っているのか、正直怖くて確認していない。とにかく、それ以後は仕事に夢中になって恋愛に目を向ける暇がなかった。いや、目を向けようとしなかったとう表現が正しいかもしれない。

 あの夏から進展がないどころか、相手は行方知れずで答えようもなかった。


 食後に仮眠をとるとほぼ一日はふいになってしまった。次に目覚めると夕暮れが迫っていた。

 リビングに足を向ければ、蓮実が外出から帰ってきたところだった。


「お姉ちゃん、おかえり。ミステリーの撮影終わったんだってね」

「まぁね、そっちはデートを楽しんできた? 年上の彼氏に少しは甘えてきたの?」


 姉の言葉に蓮実は苦笑しただけで、テーブルに置いてあったものを手に取った。それが視界に入ったとたん、花蓮の鼓動が跳ね上がる。


「お姉ちゃんに、とっておきのお土産!」


 蓮実が持っていたのは一冊のスケッチブックだ。ずいぶん前に同じものを、正確には台紙が色違いのものを見たことがある。長峰のアトリエで。


「これって……?」


 差し出されるままに受けとったスケッチブックの外観を、瞬きを忘れるほど観察する。

 前後の台紙を閉じる汚れた紐の結び目を見た瞬間、言いようのない懐かしさがこみ上げてきた。あのとき、彼に見せてもらったものとほとんど同じだ。

 片蝶結びを解いて中を開くと、花蓮は目を瞠った。


 スケッチブックに描かれていたのは、花蓮の姿だった。五年前の、子どもと大人の中間にあった自分の姿。現実よりも絵のなかの自分の表情のほうが鮮明な気がする。

 次の頁をめくってもまた自分の顔が描かれている。ハッとして、花蓮は素早くページをめくっていった。

 ずっと、最初から最後まで自分が……自分だけが描かれている。寄りかかって座っている姿、口を開けて笑う表情、不機嫌そうに口を尖らせていたり、涙をこぼして何かに堪えたり、花蓮のさまざまな表情を切り取ってある。

 こんな表情を、当時長峰に見せていただろうか。眺めているうちにある変化に気づいた。


「今の私?」


 最後の頁に描かれていたのは、花蓮だ。ただし、彼と一緒に過ごした五年前の自分ではない。頬もこけたし、目元が以前よりも力強い。

 今現在の自分が描かれていた。


「蓮実、アンタどうしてこれ……」


 言いかけて、蓮実のデートの行き先を思い出した。アート系の展示会。


「あの頃とあまり変わってないみたい。ニューヨークの個展で高く評価されたんだって。今回は何人かの若手芸術家の作品展だったんだけど、長峰さんが当日来てるとは思わなかったんだよね。私、後ろ姿でお姉ちゃんに間違えられたの」


 たしかに姉妹は似ている。後ろ姿はほとんど区別もつかないので見分けるポイントは髪の色のみとされているほどだ。

 長峰のほうから呼び止めたのだろうか。


「蓮実ですって挨拶したら、お姉ちゃんにそれを渡してくれって頼まれた」


 花蓮のなかで色々な感情が混ざり合う。


「展覧会のバックヤードに入れてもらったんだけど、スケッチブック、それ一冊ってわけじゃないみたい」

「え?」


 蓮実が何を指摘したいのかわからない。


「長峰さんが色々描いたなかの、大事な一冊を預かってきたんだと思う。悪いとは思ったんだけど、なか見せてもらった」


 そのわりには、後ろめたさを感じているようには見えない。


「私は文章専門で文字ばかり書いているけど、言葉の要らない表現もたしかにあるんだね……ちょっと感動した。長峰さんの気持ちが、伝わってくるもの」


 どきりとして、スケッチブックのなかの自分に目を落とす。絵のなかの自分はなにも答えてはくれない。


「気持ち? ど、どんな風に?」


 花蓮の問いに蓮実は目を丸くしてから苦笑する。


「本人に確かめればいいじゃない? 宿泊先聞いたら、前と同じ場所って言ってたから」


 前と同じ場所……それならば五年前と同じ、と考えていいのだろうか。花蓮の脳裏に浮かぶ答えはひとつしかない。


「行ってくる」


 慌ただしく自分の部屋で着替え、花蓮は貴重品が入るほどのバッグを手にリビングにとって返す。テーブルに置いたスケッチブックを忘れてはいけない。

 母は気をつけて行ってきなさいとだけ言い渡す。


「リベンジ頑張って!」


 蓮実は笑顔で激励したが、すぐに自分の鞄のなかのスマートフォンが振動していることに気づいた。着信表示を見て妹の表情がさらに明るくなる。


「秀さんからだ。じゃ、気をつけてね!」


 彼氏との会話を家族に聞かれるのが嫌なのか、蓮実はすばやい身のこなしで自分の部屋で駆けこんでいった。そんな様子を見て母は苦笑する。


「アンタも蓮実も、変われば変わるもんだわね。それが恋ってことかしら」

「そうかもね……じゃ、私も行ってくる」


 逸る気持ちを抑え、花蓮は家を飛び出した。

 そう、五年越しの恋の決着をつけるために。



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