告白
相変わらず昼間は残暑が厳しいものの、夕方になると急に涼しい風が吹く日が増えてきた。
日中は森下家で涼ませてもらっている長峰だったが、日没後は物置を改造したアトリエで過ごす時間が増えてきた。
それが肖像画制作に使った道具の後片づけと、新たな旅支度をしていることは皆が知っている。
「ま、こんなもんだな」
長峰は荷物をまとめながら、アトリエのなかをざっと見渡す。
もとは鞠絵たちが建てた物置小屋なので、室内を検めるのは簡単なことだ。
イーゼルや画材をまとめると、ガランとした物置に戻ってしまった。
衣類は必要以上に持ち歩かないことにしている。いつでも旅に出られる状態だ。本来なら絵を一枚仕上げた達成感も手伝って、次に何を描こうかと子どものように気分が高揚するはずだった。
それなのに、今回はちがう。
長峰は作業机の工具箱に立てかけたキャンバスに視線を移した。
もちろん花蓮の肖像画である。この夏、画家として全力を傾けた結果だ。何度も自問自答して完成を目指した作品と対面する不思議な境地に至った。
キャンバスのなかの花蓮をただ見つめる。
『長峰さんもね』
柄になく思い出し笑いをしてしまった。
花蓮の言葉は本当に意外だった。だが、彼女と出会ってからは意外なこと尽くしだった気がする。
自分が愛想のいい人間でないことは百も承知だ。
花蓮に警戒されても仕方がない。肖像画を描きはじめて二、三日目のころは、彼女が逃げ帰るかもしれないと真剣に考えたほどだ――結局取り越し苦労で終わったのだが。
絵を完成させたとき、目の前にはたしかに「自分」を持っている女性がいた。
(こんな男の絵のモデルをよく務めあげたな)
心底感心した。
これまで他人に対してそういった敬意を払ったことがあっただろうか。
ましてや、軽率で未熟な年齢層と偏見さえ持っていた女子高生相手に。
先々のことを考えない天然キャラな花蓮だが、彼女なりの葛藤を抱えていることがわかると年齢というもので思慮の有無を決めるのは誤りだと悟った。
この夏に肖像画を描いたことは自分らしくない行動の連続だった。
妥協と周囲への配慮。絵を描きはじめたら何も目に入らないと評されてきた長峰にはありえない鼓動だった。
父の大学時代の後輩にあたる森下氏の家に居候することになったのは、自分の帰宅と両親の旅行がブッキングしてしまったせいだった。
どうやって事情を知ったのか、鞠絵が自分たちの家の物置をアトリエとして提供してくれることになり、食事の世話まで焼いてくれた。
モデルを使って人物画を描こうと鞠絵から提案されたとき、乗り気でなかった長峰でさえも断ることができなかったのは彼女に対して恩を仇で返したくなかったからだ。
もっとも、モデルとして花蓮を連れてこられては嫌とは言えなかった。
被写体のなかで最も難しい「美人」を連れてこられると挑発された気がしたのだ。形が整ったものを描写するほど普通の技巧ではつまらなくなる。
鞠絵は最初からこの結果まで予想していたのかもしれない。いや、期待していたという表現のほうが適切だと思った。
彼女は長峰たちの生活の世話をしてくれたが絵画制作について細かな注文はつけなかったのだ。釘を刺されたのは、花蓮の体調管理に配慮するようにという一点だった。
だから、花蓮が熱中症で倒れたときは本気で怒られたのだ。
『行っちゃうの?』
絵が完成した直後に彼女から礼を言われて、複雑な感情が駆け巡った。
寂しくなるな、と心のなかで独白したのだ。
同時に、不安を覚えた。
この居心地のいい場所に留まれば、また外の世界へ出かけることができなくなってしまうのでは――と。
海外へ行くと告げたときの花蓮は呆気にとられているように見えた。
驚いて、旅の詳細を尋ねられなかったのは幸いだった。まだ旅行計画そのものが白紙の状態だったからだ。
絵の完成に礼を言ってくれたばかりの花蓮の焦げ茶色の目はまだ涙を滲ませている。
縋るように長峰を見上げてきた。
絵に描き出した彼女の純粋さには微塵もなかった表情に見惚れた。
もし、あの表情で「行かないで」と請われたら――長峰には悪魔の、誘惑の囁きともとれただろう。
また肖像画のモデルを頼むかもしれないと口を滑らせたのは、長峰のなかに初めてその場に留まりたいという気持ちが芽生えたからだ。絵に関することならば迷うことはなかった。海外行きを速やかに実行しようとしているのは、一度立ち止まってしまったら自由に旅ができなくなるのでは、という恐れがあるからだ。
肖像画を完成させるまえから、花蓮は「特別」になっていた。
長峰のなかには、日本に留まり、花蓮を身近に置いておきたいという気持ちもある。
だが、画家として生きる覚悟を決めている自分に対して、自身の進路さえ定まらない高校生の花蓮を道連れにするわけにはいかない。
第一、彼女は鞠絵の大事な姪。
軽率に手を伸ばせる存在と思えなかった。
冷静になれば、子ども相手に抱える感情ではないと長峰もわかっている。理性が警鐘を鳴らし続けている。
「長峰さん」
今まで長峰の思考を占拠していた少女の声が、入口から聞こえてきた。
緊張気味の面持ちで花蓮がそこに立っている。
「どうした?」
「これ、返しにきた」
アトリエのなかに足を踏み入れ、花蓮は抱えていたスケッチブックを長峰に差し出した。自分がどんな絵を描くのかを見てみたいと言われたので、参考までに貸したおいたスケッチブックだ。
正直、自分の絵に興味を持ってもらえたのならば悪い気はしない。
だから、早く見せてやりたくて慌ててアトリエから引っ張り出してきたが、自分のせいで貸出期間は短くなってしまった。
スケッチブックを受け取るときに彼女の顔を見ると、瞼が腫れいた。
「瞼、ずいぶん腫れたな」
「だって、長峰さんが急に遠くに行くなんて言うから」
突然すぎてショックが大きすぎたようだ。だが、花蓮に海外へ行くことを黙っているほうが不自然に思えて仕方なかった。
「大袈裟だろう。前にも話しただろ、海外へ行って絵を描いてたって」
「わかってるよ。でも、海外じゃなくても絵は描けるじゃない?」
美大を卒業後、最初に海外へ行くことを告げたときに両親も同じことを言っていた。しかし、海を越えた国々には直接自ら出向いて行かなければ出会えない景色がある。色も熱も、人も、肌で感じて初めてその光景を絵に描きたいと思う。
「日本より海外のほうが危険なんでしょう? 強盗とかあるって言うし、テロに巻き込まれるかもしれないよ?」
大まかにでも、海外の治安の悪さを理解しているらしい。
「それでも行く。自分で行く必要があると感じたからだ」
半分は本心だった。残り半分はまだ迷いが残っていた。根源が目の前にいるというのに、彼女自身はまったく気づいていない。
黙っていると、どんどん花蓮の目が潤んでいく。
「いちいち泣くな。何度も言わせるな、大袈裟すぎるんだよ」
「ずるいよ……長峰さん、ひと月も長峰さんに振りまわされてたのに、急にいなくなっちゃうんだもん」
振りまわされたのはこっちのほうだ、と言いたいところを長峰は何とか堪えた。ここで自分の感情を吐き出してしまったら収拾がつかなくなる。
「夏休みが終われば、同じようなモンだろ。学校行って、また高校生らしい生活に戻れば、俺がいなくても大して変わりはない」
「全然ちがうよ!」
花蓮の厳しい声音に、長峰が目を瞠る。悲鳴や歓喜の声はあげても、花蓮はこれまで怒りのこもった声を張り上げることはなかった。真剣な感情のこもった声が静まり返ったアトリエに響く。
「ちがうよ! 学校だって今までとちがって見えてくると思うし、新しいこともいっぱい試してみたいと思う。何かしてみたいと思うようになったのは、長峰さんが絵を描くのを見てきたからだよ!」
興奮から彼女の体が震えていた。今にも零れ落ちそうな涙が、辛うじて下睫毛に留まっている。
「私も夢中になるもの見つけたいと思ったの。それ以外目に入らなくなるものを探したい……長峰さんとも、もっと色んなことを話したいの」
それは長峰も同じだった。話題はどんなものでも構わない。ふたりで会話する時間にこそ意味がある。
実際、夏の間に言葉を交わした時間は、大切なものだ。絵以外のものに執着することを避けてきた長峰は、リスクに順応できるほど器用な男じゃないと自分でもわかっている。
「また帰国してから会えるよ。そのうち、つもる話ができてからな」
「ずるいよ……また肖像画を描くって言ってたじゃない」
「それは別の話だ。立てつづけに同じ人間を描いたって変化がないだろう。お前がもう少し大人になってからだ」
花蓮が潤んだ目で長峰を睨んだ。
「なによ、ソレ……また、そのうちって、いつ?」
彼女の問いに長峰は答えなかった。彼自身も先を見越した予定ではないのだ。
「好きなのに――」
ぽろっと、血色の良い唇から零れた彼女の言葉で、長峰に動揺が走った。




