絵の完成
つに花蓮にとってのXデーが来てしまった。
初めてアトリエの椅子に座り、ポーズを指定された日のことを思い出す。今も同じポーズをとっているのに気持ちはまったく異なったものだ。
胸を開いて自分の気持ちを見せることができたら、どれほど楽だろうと花蓮は思う。
あと十日ほど経てば、夏休みも終わるというのに暑さがゆるむ気配はない。むしろ残暑という言葉にふさわしい暑さが続いている。
花蓮の肖像画は細部も調えられ、残すところは表情を描く最終段階に入っていた。だから前日に長峰がみんなに宣言していた――明日で絵が完成すると。
鞠絵はお祝いにご馳走を作ると張り切っていたし、蓮実は自宅の両親に連絡を入れていた。花蓮も自分で決めたとおり、長峰に自分の気持ちを告げようと覚悟を決めていたのだ。
朝から蓮実はアトリエ部屋に近寄らなかった。気を遣ってくれたのだろうと花蓮にもわかっていた。
どういうわけか会話が続かず、さほど広く感じたことのなかった室内にエアコンの稼働音が響く。久しぶりに気まずく、緊張が張り詰めていくのがわかった。
「そろそろ終わりそう?」
「んー……そうだな」
気のない返事、あるいは絵に集中しすぎて上の空といったところか。長峰は花蓮の言葉に明確な返事をしなかった。
絵筆をふと止めて首を捻り、キャンバスとモデルである花蓮の姿を交互に見る。朝からそんな会話が3時間の間に何度も繰り返された。
焦らされているようで、花蓮の額に汗が滲みはじめる。エアコンのついている部屋に移動してからは、汗をかこと自体なかったというのに。
それだけ花蓮が秘めている想いが熱を帯び、噴きだしはじめたせいだろう。
(どうしよう……なんて言えばいいかな――)
告白する――と決めたものの、具体的にどうするか決めていない。花蓮が焦燥感を煽られる理由のひとつかもしれない。頭のなかで何度もシミュレーションしてみるが、結局正解を導きだすことはできなかった。
「花蓮」
長峰の声でわれに返ると、彼が手招きしている。
その動作に心臓が跳ね上がった。請われるままに椅子から立ち上がり、長峰のもとに向かう。進捗状況を確認するため何度か肖像画を見たこともあったのに緊張感は過去最大レベルだ。
「……っ」
イーゼルにかけられたキャンバスを覗きこみ、花蓮は目を瞠った。以前見せてもらっていた描きかけの状態とは比べものにならない見事な仕上がりだった。
画面に映し出されているのは花蓮の姿なのに、同時に自分とは思えない少女が描き出されている。
陰影が重ねられ、表情が柔和な少女がそこに座っている。最初見たときよりも色を重ねたぶん重厚感が出てもいいはずなのに、透明な、澄んだ印象が強かった。
この夏の、自分の姿だ。
次いで、今日までの出来事が走馬灯のように思い出された。
熱中症で倒れてしまった日。長峰相手に日常の愚痴までこぼした昼下がり。外出先では警戒心が足りないと叱られた。
雷鳴に怯え長峰に抱きついた日。
記憶が溢れ出して、胸が熱くなった。
声が、出ない。
「どうした?」
黙りこむ花蓮を不思議に思った長峰が声をかける。
「私、こんなんじゃ、ない……っ」
声が掠れてしまい、花蓮は短い言葉を区切りながら答える。
仕上がりが気に入らないのか、と長峰が言うまえに彼女が言葉を続けた。
「こんな、キレイじゃないよ……」
花蓮の双眸から涙が零れ、溢れだした。
長峰が、自分の肖像画を描きはじめたときは実物よりも多少上手く描いてもらえたほうが得だと思った。
長峰にその気がないとわかったのであてにもしなかったのだが、いざ絵が完成すると自分が思うよりもよく描かれている。よすぎるだ。
モデル初日の花蓮だったら手放しで喜んでいたが、想像以上の出来に怖くなった。
(長峰さんには、私がこんな風に見えるの……?)
「こんな風に……描いてもらえる、ほど、何も……」
自分はただ椅子に座っていただけで、すべて長峰の画力がなせる業だ。むしろ足を引っ張っていた。美しく描かれて単純に嬉しいとは思えなかった。
美化されることは、実物よりも過剰に期待されることもある。
「初日と今日の自分を比べてみろ。顔まで強張らせてた子どもが、ちゃんと安定したポーズの取り方を覚えたんだ。成長したのはたしかだろ」
成長した――長時間ポーズを維持することができるようになったのはたしかだ。外出もせずに絵のモデルの仕事に没頭していた自分には気づいていた。
人からその変化を認めてもらえたことが嬉しい。何よりも、長峰に認めてもらえたことが嬉しかった。
「自分の頑張りを認めてやれるのも自分だからな――頑張ったと思うぞ」
「長峰さんもね」
長峰は豆鉄砲を食らったような顔をする。花蓮の言葉は、思いがけない切り返しだったようだ。
本当に彼には面倒ばかりかけた。今にして思えば、絵を描くことに妥協しない長峰なら、初日でモデルをクビにされてもおかしくなかったのだ。
「……ありがとうございました」
花蓮が、長峰に向かって頭を下げた。彼がいなかったら、今日の自分はいなかった。
自分の努力なんてまだまだだが、泣くほどの達成感を感じたのは生まれてはじめてだった。志望高校に合格できたときよりも、充実感があった。
「こちらこそ」
長峰の言葉に花蓮が顔を上げる。彼の穏やかな表情に対して、花蓮は大粒の涙を零して鼻をグズグズと啜っていることに気づいて赤面する。慌てて顔を覆った花蓮の頭を長峰が優しく撫で、思いげけない言葉を放った。
「モデル、また、頼むかもしれないな」
多少迷いがあったのか、長峰の喋り方がぎこちない。花蓮は、涙をためた目で長峰を見つめ返した。
「またって、いつ?」
「は? 今描き終わったんだぞ? 次は……普通はしばらく先だろ」
「だから、そのしばらくってどれくらいのことなの?」
花蓮が子どものように答えを強請ってきたので、長峰は狼狽した。
「また海外へ行って、友達のとこでまた絵を描くから……その後。来年以降のことだ」
「海外……?」
つぶやきの漏れた口のなかが異常に渇いている。
長峰から絵を描くために海外を旅すると聞いたことがあった。しかし、旅費を稼ぐためには日本に滞在する必要があるという言葉をすっかり信じきっていたのだ。
「海外って、すぐってわけじゃないよね?」
肖像画を描いている間は、長峰は生活費を稼ぐどころではなかったはずだ。渡航費の工面が間に合わないと高を括っていたのに。
花蓮にとっては寝耳に水だ。
「いや、こないだ画廊から連絡があって絵が何枚か売れたんだ。予算ができたから、なるべく早めに日本を発つつもりでいる」
「じゃあ……本当に行っちゃうの?」
「……」
花蓮の問いに長峰は一瞬困惑したが、彼女を正面から見据える。
「ああ。できれば今月中に」
答えを振り絞った長峰の声が、しんと静まりかえった部屋に響いた。
「フラれたの?」とは、姉妹に宛がわれた部屋に戻った花蓮を見た、妹の言葉だった。
正直、アトリエからどうやって部屋まで戻ってきたのかも覚えていない。
ただ、泣き腫らした目で首を横に振る姉の姿を見て、蓮実はさぞ不審に思っただろう。
長峰から海外行きを告げられた花蓮は、頭のなかが真っ白になって告白どころではなくなってしまった。
(長峰さんが遠くに行っちゃう……)
涙は止まったが、花蓮の頭のなかはいまだ収拾がつかない。
蓮実は根気強く、単純な質問を積み重ねて長峰とのやりとりを把握した。
「なるほどね。長峰さんが海外に行くって言われてショックだったわけね」
花蓮は妹の言葉に何度か頷いた。
毎日顔を合わせていた人が、ある日突然いなくなる。身近な場所となった家を出て、国からも旅立ってしまう。花蓮にとって最大の打撃だった。
「お姉ちゃんは、長峰さんに告白しないことにしたの?」
花蓮は、妹の質問の意味がわからなかった。やはり小学生が恋愛事情を理解するには早すぎたのか。
「告白しないもなにも……長峰さんは海外に行くんだよ?」
「だから?」
聞き返されて花蓮は困った。今から遠い外国へ行ってしまう相手に、想いを打ち明けたところでどうにもならないではないか――理解が足りない妹が恨めしい。
「遠くに行っちゃうと意味がないの?」
「?」
答えに困る花蓮を他所に、蓮実は落ち着いた調整で話しはじめた。
「同じクラスの雅美ちゃんは、卒業式に好きな男のコに告白するって決めてるの。そのコは学区がちがう中学校に通うことになってるんだって。別々の学校に通うことになるけど、離れ離れになるまえに告白したいって言ってた。告白しないで後悔するのは嫌なんだって」
小学六年生でも、人並みに恋をしていると知り花蓮はショックを受けた。このときは妹のクラスメイトを引き合いに出されるのは不愉快だった。
自分は、それほど単純な生き物ではない。
「小学生と比べないで!」
声を荒げても、蓮実はまったく動じなかった。むしろ正論で花蓮の偏見を打破する。
「小学生だって人を好きになるんだよ? 恋をするのに年齢なんて関係ないと思う」
小学生にやり込められてしまった自分の不甲斐なさに花蓮はますます小さくなった。
「お姉ちゃんは告白しないで後悔しないの? 会えなくなって、言っておけばよかったなって思わない?」
小学生の妹に詰め寄られて、花蓮はその気迫に後ずさった。
「だって……」
花蓮が言い淀むと、冷めた様子で蓮実がつぶやいた。
「お姉ちゃんって、本当に自分から動かない人だよね」
妹の言葉だというのに、親に叱られたように花蓮の肩がびくりと揺れる。
花蓮にとってあまりにも核心を突いた言葉だった。
以前に比べれば集中力も忍耐力も身についたと思っていたのに、いざ勇気が必要なときほど尻込みして決めたことを実行できない。
変わったつもりでいたのに、一学期以前に逆戻りしてしまったではないか。
「お姉ちゃんは、変わったと思うよ、少しだけね」
花蓮は驚いて蓮実の顔をまじまじと見つめる。妹からは冷静に自分の欠点を突きつけられることが多いため、素直に褒められることは少ない。
「本人よりもまわりの人のほうが、そういう変化に気づくものなんだよ」
「本当? 私、本当に変わった?」
珍しく妹に高い評価をもらった気がして、花蓮は興奮気味だ。
「だから、少しだけだってば!」
しつこく追及する花蓮を制して、蓮実は難題を先に提示した。
「消極的なところは変わってない! っていうか直す気があるの?」
「直す?」
苛立ちを含む妹からの問いに、花蓮はただ戸惑うばかりだ。業を煮やした蓮実が極めつけのひとことを花蓮にぶつけた。
「一度決めたことをやり抜こうって気持ちはないの?」
夢にむかって一直線に進む蓮実らしい言葉だ。言葉に出さなくても実行力のある妹が、いつも羨ましかった。
そこで花蓮はハッとした。蓮実は長峰と同じタイプの人間なのだ。
自分の決めた道を迷わずまっしぐらに突き進む情熱。それが姉妹の間に感じていた温度差の正体だった。
目標のある人と、そうじゃない人では生き方そのものがちがって見える。
自分とのちがいに気づけたのなら、もっと変わることができるだろうか。妹や、彼のように。
「……変わりたいよ……っ」
花蓮が、まだ鼻づまりの声をふり絞る。ずっと憶測にしまい込んでいた気持ちが、言葉になり声に変わる。
「私だって、変わりたいって思ってるよ! 中身がないようなことばかり言われて、ヘラヘラしてるほどバカじゃないもん! でも、どうしていいかわからなくて、だから――」
ついに花蓮の感情が爆発した。簡単にあきらめたくなんかない。
少しずつ自分ができなかったことを普通にこなせるように頑張ってきた。
長峰にも、蓮実にも成長を認めてもらえた。だから、まだ諦めるという言葉は使いたくない。
「私も、もっと変われると思う? 蓮実や、長峰さんみたいになれると思う?」
蓮実は姉の激昂ぶりに目を瞠る。それから、どこかホッとしたように肩で息をついて笑った。
「そんなの、お姉ちゃんしだいでしょう?」
「私の決めることじゃないよ」という言葉と一緒に箱から引き抜いたティッシュペーパーを手渡されて、花蓮は自分の顔がまた涙や鼻水でぐちゃぐちゃになっていることに気づいた。
「やれるとこまでやってみなよ……お姉ちゃんのこと、ちゃんと応援するから」
妹の言葉にあたたかいものを感じて、花蓮は受け取ったティッシュペーパーで鼻をチンとかんだ。




