この気持ちの名前
このところ、長峰は昼の休憩に入ると食後の散歩に出ることが増えた。
あまり遠出すると暑いし、絵を描く時間まで削ることになる。
完成が近いとはいえ、まだ気は抜けない。自分が満足できるかどうかは完成してみないとわからないものだ。
だから、こんなことは初めてだった。
未完成の絵を置き去りに、アトリエを離れたいと思ったことは。
それでも外を歩いて頭を冷やす必要があると判断したのだ。今の自分はどうかしている。
花蓮のあのまなざし。
あどけなさが残る彼女の顔に、日増しに憂いの色が加わっていく。その表情が頭から離れなくなりそうだ。
「……どうかしてるな」
雷が落ちた日にブレーカーが落ちてしまった。
電気だけでなく、自分のなかに描いてきたビジョンも。代わりに映り込んでしまったのが、ひとりの人間。
夏の暑さで頭がイカれたとしか思えない。
花蓮と向き合うと冷静さを欠きはじめる。
最初は鞠絵の突飛な思いつきで描くことになった肖像画だ。描くのは誰でもよかった。
モデルとしてじっとしていてくれればどんな人間でもよかった。鞠絵の候補に挙げたのが、彼女の姪である花蓮だったというだけだ。長峰にとっては、絵のモデルとはただの被写体に過ぎない。内面まで表現できるかを突き詰めていった結果、こうなってしまった。
支障をきたす前に……いや、もう支障が出ている。
早く絵を完成させなければならない。しかし、完成させればこの夏の時間は完全に終わってしまう。
彼女も、花蓮もそれを予感しているはずだ。だからこそ、絵を描き終わった後のことを気にしているのだろう。
絵の完成が現実味を帯びて、迫っている。
近所をぐるり一回りしてくると、鞠絵の家の門扉の前で花蓮が立っていた。真昼の日差しのなかに立つ花蓮の額には汗が滲んでいる。
「どうした? そんなところで突っ立ってると、また熱中症で倒れるぞ」
「散歩に出たっていうから……描くのやめちゃうんじゃないかって心配になってきた」
花蓮の言葉に、長峰はやはり自分の想像は間違っていないと確信する。
「完成目前で放り出すわけないだろ」
率直な答えに、花蓮は安堵すると同時に寂しさを覚える。長峰が玄関を潜ると、花蓮もその後に続いた。アトリエ代用の部屋へ直行する。
(大丈夫だ。きっと描き上げられる)
キャンバスをのせたイーゼルの前に立つ。花蓮がつられるようにいつもの椅子に座った。日々モデルの表情はちがって見える。最初は彼女の内面ばかりに拘ったが、完成を前にして掘り下げる必要がなかったことに気づく。
自分が花蓮から感じ取ったままを描けばよかったのだ。明朗だけじゃない、複雑さと危うさを併せ持つ十代の少女の姿を。
そう……十代の少女だ、と再認識したとたん無意識に長峰の口から溜息が漏れた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
妙に思った花蓮の問いを受け流し、長峰はキャンバスのなかの彼女を見つめる。すべてを描き尽すつもりで臨んだ肖像画だが、鞠絵の指摘がどれほど奥深いものかを今、思い知った。
間違いなく、描ききれていない部分に自分は惹きつけられている。言葉でも絵でも表現できない魅力に。
「お前は、絵が完成したらどうする?」
「自分の家に帰って、夏休みが終わってからのこと?」
まあな、と返事をした長峰に花蓮は大袈裟に驚いて見せた。
「長峰さんがそんなこと聞いたの初めてじゃない?」
だから驚いているのかと聞き返せば、花蓮は何度も首を縦に振る。小鼻が膨らんでいるので本当に興奮しているようだ。
「初めてってことないだろう」
「あるよ! 私がひとりで喋ってても、話にわり込んだりしないし、私に聞き返すことってなかったもん!」
花蓮に真向から否定された。言った言わないの問題は、女性の記憶力に敵わない。
それに花蓮は嘘が下手だ。躊躇いもなく断言できるということは間違いなく事実なのだろう。
「わかった、わかった。それで、絵のモデルから解放されたら何をしたい?」
「まずは、蓮実に叱られるから宿題を仕上げる」
賢明なことだと長峰は笑う。
小学生の妹が見張り役とは、どれだけぐうたらな女子高生なんだと当初は驚いたものだ。
「それから、新学期になったらちゃんと部室にも小まめに顔を出そうかなって」
「部活……ああ、演劇部だったな」
普段からの花蓮の会話を思い出して相槌を打てば、彼女がさらに驚いていた。
「長峰さんって意外と人の話覚えてたんだね」
花蓮の言うとおりだ。適当に聞き流しているつもりだったのに、彼女の話を細かく記憶している。
自分でも意外だった。
「演劇部なんて、お前芝居できるのか? 嘘もまともにつけないだろう!」
ショッピングモールでスカウトされたのが影響しているのか。だが、あの男が本当に芸能事務所の人間だったのかは怪しいところだ。
「そんなことないよ! 私だってその気になれば何とかできると思う」
夏休みに入るまでは、周囲に流されただけで、長峰に指摘されたように自分に演技なんてできるとは思っていなかった。
でも、自分で本気でとりかかれば何かしら実るものがある、そう思えるようになった――自分から行動しなければ何もはじまらないと。
「まぁ、配役次第だな。お前のその気ってのが問題だと思うが……」
長峰が気を遣って譲歩した。花蓮は何か言いたげだったが、しばらく沈黙を守っていた。
なぜだろう。ただのモデルだが、彼女が本当に言いたいことを我慢しているのがわかるようになった。画家とモデルの間に生まれるシンパシーというやつだろうか。
「他に言いたいことは? 無理しないで言っちまえよ」
「……あとね、長峰さんが次にどんな絵を描くか見てみたい」
意外な要望に絵筆を持つ手を止めて、長峰が花蓮を見据えた。かわらず興奮を押し隠すような表情だが、目だけはキラキラしている。純粋な興味を物語る瞳の輝きだ。
花蓮は慌てて理由を話してくれた。
「私、その絵以外に長峰さんの絵って見たことないでしょう?」
花蓮は長峰が目の前にあるキャンバスに視線を注ぐ。
「だから、どんな絵を描いてきたのか知りたいし、これからどんなものを描くのか見てみたいと思ったの。おかしいかな?」
「……」
長峰は穴が空くほど彼女の顔を見つめる。無言で視線を当てられるとさらに気恥ずかしくなって、花蓮は目を逸らした。
「そのうちな」
「え?」
ぶっきらぼうな返事だけで、長峰はキャンバスに集中した。
本当は、彼のことをもっと詳しく知りたいだけだった。
恋愛どころか男子生徒との口の利き方も忘れている花蓮が、それを長峰に直接伝えるのは難題だったのである。ハードルが高すぎたのだ。
代わりに彼の描いた絵を見せてほしいと強請るのが精一杯だった。拒絶されなかっただけマシだが、すぐさま疑問が花蓮の頭をもたげる。
(長峰さんの言う『そのうち』って、いつなんだろう?)
絵を描いている最中の長峰を邪魔するわけにはいかず、追究の言葉を飲み込んでしまう。タイミングを逃した花蓮は、彼からの返事がくることを期待するしかない。
今、キャンバスに集中している彼の逆鱗に触れるのはモデルとしてNGだからだ。
その後の長峰は、夕方まで画家としての集中力を発揮した。この頃になると、花蓮も彼が絵を描くのに無心の状態に入ったのがわかるようになっていたので、黙って姿勢を維持するようになっていた――長峰を見つめながら。
相手との会話が途切れるのが心細くて、しきりに喋っていた言葉も必要なくなっていた。
仲の良い友人同士がずっと喋りっぱなしというわけではない。
無言でも、ふたりに気まずさがなくなったからだ。無意味な会話を繋ぐことも控えるよう努力している。
肖像画を描くのは遅くても午後五時までと決まっていた。
高校生の花蓮が、夏休みの宿題に費やす時間を確保するためだ。宿題をサボりがたる花蓮を見張るために、妹の蓮実が寄こされたくらいだ。放っておいたら、本当に宿題に手をつけることなく夏休みが終わってしまう可能性が高い。
絵のモデルになったから夏休みの宿題ができなかった、という言い訳でもされたら長峰だって責任を追及されかねないので夕方までと提案したのだ。
「あら、蒼太くんまだ来てないの?」
鞠絵が夕飯を配膳し終えたダイニングテーブルに着こうとしたが、長峰がまだ座っていないことを不思議に思った。意外なことに彼は時間には几帳面なので、普段から食事の時間を守って呼ばれるまえに席についている。
普段ない状況に花蓮は即座に反応した。
「さっきアトリエに行ったみたいだから、私が呼んでくる!」
花蓮は席を立って、当初絵が描きはじめたアトリエ小屋に急いだ。明かりが点いてはいたが、礼儀として声をかける。
「長峰さん、いるぅ? 夕飯支度できたよ!」
「ああ、わかった。今すぐに……」
なかを覗けば、作業台のあたりでガサゴソと何かを漁っている彼の背中が見えた。
「珍しいね、こんな時間に探しもの?」
「探しものってほどじゃないけどな、ほら――」
自分に向かって差し出された大判の物体に、花蓮は眉を顰めながら受け取った。最初は段ボール板かと思ったものはスケッチブックだった。
「え、なんで……あ!」
昼間の会話を思い出してハッとした。
彼の描いてきた絵を見てみたいと自分で言っておきながら、途中から忘れていた。長峰のそのうち、という言葉も望み薄かと判断したが、ちゃんと覚えていてくれたらしい。
「なか、見てもいいの?」
「見てみたかったんだろ? 別に減るもんじゃない」
花蓮は、スケッチブックを閉じていた紐を解き、せっかちに開いた。
はじめに開いたページには手が描かれている。女性の手のようだ。手のひらに比べると指は短く、皮膚の皺の描写から中年女性の手に思える。
「すごい!」
ページをめくると次々に描写の世界が広がった。
向日葵の花は花粉まで描いてある! 大玉のスイカ、軒下の風鈴。どれも質感が伝わってくる。
縁側で寝そべるブチ模様のネコ。同じネコで数パターンのポーズも描かれていた。あくびをする表情。ピンと張ったヒゲを太目に引いたのは、そこを強調したかったからか? 獲物を狙っているのか姿勢を低くして前足に体重をかけ一定の方向に視線を集中している姿。
野生の猫の目が力強く描かれている。
「動物も描けるんだね、ちょっと意外かも。ウチのイヌも描いてほしい! 蓮実、きっと喜ぶだろうなぁ」
「イヌ? ペットなんて飼ってたのか?」
ペットの話をせずともコミュニケーションがとれるようになっていた。でも、相手から尋ねられると花蓮は嬉しくなる。
「そう、ロミオっていうの。近所で何匹か捨てられた小犬のうちの一匹を飼うことになって、蓮実がすごく可愛がってるの。ロミオもすごく懐いていて……」
説明しながら、久しぶりに自宅の光景を思い浮かべると、あることに気づいた。
夏休みの間、ずっと蓮実が家を留守にしているならロミオも寂しがっているかもしれない。蓮実だって好き好んで姉の監視をしにきたわけではないだろう。そんな環境にしてしまった原因はすべて自分にある。
初めて客観的に自分を見つめることができた。
「ロミオか……名前は妹がつけたんだろうな」
「あ、うん」
花蓮は反射的に頷く。自分を客観視できるようになったとたん、進んでアトリエまでやっきた理由がわかってしまった。
長峰に近づきたかったからだ。
最初はひどく警戒したが、悪い人間じゃないとわかると彼を観察するようになった。性別の問題ではなく、自分にないものを持っている人間。
夢や自分の生き方に一切のぶれがない。まわりに流され、目標もなくふらふらしている自分とは大ちがいだ。
(だから――)
「もうメシなんだろ? それは後で見ろ」
長峰が電気を消してアトリエの戸口に向かって歩き出したので、花蓮はスケッチブックを抱えたまま後に続いた。
「後でって、コレ持って行っていいの?」
「夕飯食べてから見ろ。急がなくていいぞ」
「わかった!」
長峰を追い抜いて、スケッチブックを大事そうに抱えた花蓮は客間へ急ぐ。食後に部屋でゆっくり眺めたい。
今で知らなかった長峰の世界が広がりを見せるようで、花蓮は嬉しくて仕方なかった。
蓮実と共同で使っている客間のサイドボードに、長峰のスケッチブックを置いた。続きを見るのは夕飯の後だ。見れば、長峰の絵が持つ魅力に惹きつけられてしまう気がする。
でも、見たい。
新しく開けた景色に胸が躍る感覚。じっとしていられない胸のざわつきは、これまでの浮ついたものとは別物に思えた。
(長峰さんが絵を完成させたら、ちゃんと伝えよう)
心に決めた花蓮は、みんなが集まっているダイニングへ向かった。
夕飯後、妹にさんざん抗議されて、花蓮はなんとか宿題を終わらせることができた。学校から出された夏休み中の課題すべてを完成することができたのだ。
その喜びも相まって、花蓮は瞬きを惜しむように長峰から借りたスケッチブックを鑑賞していた。美大出身者の画力はやはり凄いと舌を巻く。そんな姉の姿をしげしげと見ていた蓮実が、核心を突いた問いを投げかけた。
「お姉ちゃんは長峰さんのことが好きなの?」
スケッチブックから妹の顔に視線を移し、姉妹はしばらく視線を交わす。次の瞬間、花蓮の顔は見る見るうちに赤くなった。
「な、なにアンタ、急にそんなこと……」
「急じゃないでしょう。前からそうじゃないかなって思ってたし、最近お姉ちゃんそういう雰囲気出てるから、最終確認のつもりだったんだけど」
冷静な蓮実の答えに、花蓮はぎょっとした。
「雰囲気出てるって、どんな風に?」
「全身で好きって表現してる……ロミオが喜んで尻尾を振ってるようなカンジ」
ロミオとは、宮越家の愛犬である。
おそらく満一歳。ゴールデンレトリバーと雑種のハーフらしい。愛くるしい表情に家族中が癒されてるが、ペットに例えられるのは心外だ。
あまりに勢いよく尻尾を振るので、人間の視点で見ればちぎれるのではないかと苦笑してしまう必死さである。
(アレが、私と同じ……まわりに、あんな風に見られてるってこと?)
それならば、すでに周囲にもバレているのでは――。
その可能性が過った瞬間、花蓮の背筋が凍った。
「もしかして、長峰さんにもバレてたりするのかな?」
「わからない……っていうか、お姉ちゃん、今あっさり認めたよね」
妹の容赦のないツッコミに、花蓮は言葉に詰まる。
この話題について姉妹で話し合うことになるとは思わなかった。普通両者の立場が逆である。
「たぶん、そうだと思うけど……これまで特別に好きなコもできたことないから実感が湧かないの!」
女子校なので構内の恋愛は夢のまた夢。中学時代にちがうクラスの男子から告白されたことはあったが、それに応じるほど花蓮の気持ちは動かなかったのだ。
今までにない感情が高まっても、自分に自信が持てずにいる。
しかし……
「好きって言葉が正しいかわからない。でも、長峰さんは特別なの……気づかないうちに、特別になっちゃってただけなんだ」
溜め込んでいた気持ちを、花蓮はついに言葉にしてしまった。




