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ナチュラルネイル

 サマン重工の最高CEOである、スティーブン・シャーマン氏が亡くなったニュースは、アンバー王国のみならず、世界中を駆け巡っていた。

 なによりその内容が衝撃であるのは、彼を殺害した容疑をかけられているのが、アンバー王国の貴族の令嬢である点だ。

 その事件の担当を務める新人検事であるグウェン・マウンテンは、被疑者であるリリー・アスセーナス嬢を目の前にして沈黙していた。

 先輩の検事官からは、『貴族令嬢とはいえど、我々は法に基づき行動しているのだから、遠慮はいらない。真実を明らかにしてこい』と、厳命を受けていた。つまり、自白を持って来いと言うことだ。が、グウェンはリリー・アスセーナス嬢を目の前にして、それは非常に難しい注文であると、心の中で大きなため息を吐きながら、苦笑いを浮かべることしかできないでいる。

「検事官のグウェン・マウンテン申します」

「はじめまして、グウェン様。私、牢獄に入れられて、どんな怖い検事さんがいらっしゃるのかと戦々恐々としていたのですけど、とてもお優しそうな女性の方が来てくださって、安心しておております」

「いえ、恐縮です」

 グウェンは乾いた笑い声をあげながら、リリーの言葉に答える。

 リリーは今自分が置かれている場所を”牢獄”だと表現するが、グウェンからみると全くそうではない。

 確かに入り口は鉄格子が嵌められた、重々しい扉であるが、貴族の場合、室内には安全性が確認された使い慣れたベッドやソファー、衣服や食事などの物を運びこむことが出来る。(要するに、刃物などの危険物以外)そして基本的に身のまわりのことを一人で行えない人が多いので、身のまわりの世話をするものとして、メイド一名の同伴が許されている。

「失礼いたします」

「ありがとうございます」

 今、グウェンに紅茶を出してくれた、アリと言うメイドがリリーの場合そうだ。

 罪刑が確定すれば、もちろんその限りではない。暗く薄暗い、本当の牢獄に一人、放り込まれることになるだろう。しかし、リリー・アスセーナス嬢の場合は、まだ”殺人の疑い”がかけられているだけである。

 万が一これが冤罪で、彼女に罪がなかった場合、抑留中に不当な扱いを受けたと言われてしまうと、グウェンたちの方がバッシングを受けてしまうので、全てはそうならないための措置である。じゃあ、自宅で軟禁すればいいじゃないかと思うかもしれないが、貴族側の立場からしても、自ら拘留を望んだ方が、自身が潔白であるとの意思表示にもなるし、捜査に協力的であるという大義名分が守られると言う訳である。

「すみません、事件のことで事実確認をお願いしたいのでしょうが、宜しいでしょうか」

「ええ、もちろん。なんでも仰ってください」

 リリーは嫌がる様子もなく、笑顔だった。

 アスセーナス子爵家の令嬢である、リリー・アスセーナスは絶世の美女の部類ではない。他の貴族令嬢と比べた時にずば抜けて美しいかと聞かれると、グウェンは簡単には頷けないかもしれない。ただ、こうやって相対してみるとわかるのだが、惹きつけられるなにかが、彼女にはあるのだ。それは時折不安そうに揺れる瞳なのかもしれないし、紅茶のカップを持つ時のゆっくりとした所作のせいかもしれないし、それがなにかはまでグウェンにはわからない。

「スティーブン・シャーマン氏が亡くなった時、亡くなった現場であるシャーマンの執務室に居合わせたことは間違いありませんね?」

「間違いございません」

 リリー・アスセーナスの受け答えは、貴族令嬢そのもので毅然としていた。

「その時の状況を……もう、何度も説明されていらっしゃるかもしれませんが、教えていただけないでしょうか?」

「もちろんですよ。ただ、全てが夢を見ていたのかと思われるほど、あっと言う間のことで、私にも何がなんだかわからない状況でした……そのサマン重工のスティーブン・シャーマン氏の元に伺ったのは――――とある、用事がありまして。事前にアポイトメントはアリにお願いして取り付けておりました」

 リリーは後ろに控える、メイドを見た。

「さようでございます。書状でやり取りをしておりました。その全ては、騎士団の方に証拠としてお渡ししたので、ご存知かと」

 グウェンは頷く。

 確かに、そのやり取りの後は残っており、証拠品として騎士団の方で保管している。グウェンも実物を見たが、文章なども特に不審な点はなかった。

「書状でシャーマン氏に約束を取り付け、サマン重工に行かれ、面会をされたのですね?」

「ええ。シャーマン氏の執務室に案内されまして、お話を伺っていましたら、急に胸の辺りを手で押さえられましたの。口から血が溢れて、シャーマン氏自身も一体なにが起こったのか理解できない様で、大きく目を見開かれておりました。私も急なことに大変驚きまして、お声をかけようとした時には椅子からがたりと大きな音を立てて転げ落ちてしまわれたのです。今、あの時の光景を思い出してもぞっといたします。一体なにが行ったのかと、頭が真っ白になって動けずにいて……それでもはっと意識を取り戻しました時に、なんとか外にいた秘書の方に助けを呼びまして……」

 グウェンは自身の調書に一言一句たがわない様に書きとめながら、話の内容を反芻する。

 現場に駆け付けた、騎士団から聞いた内容と相違ない。

 それは良いのだが、リリーから改めて話を聞くと、妙に符号が揃っているというか、検事の一種の勘とでも言うのだろうか、違和感を覚えるのだが、目の前のリリーの姿を見ると、その違和感はかき消される。

 スティーブン・シャーマン氏の殺害は、いわゆる密室で行われている。

 彼の執務室は防音、防壁。あらゆる外部からの干渉をシャットアウトした室内にいたのはスティーブン・シャーマン氏とリリー・アスセーナス嬢のただ二人。

 現実的に考えると、殺害が可能なのは、目の前にいるリリー・アスセーナス嬢ただ一人だけなのだが……。

 グウェンはノートと筆を止めると、自身の持って来た大きな黒革の鞄の中から、ごそごそと特殊なスキルで製作された巾着袋を取り出すと、その中から、黒の小さなクラッチバックを取り出し、さらにそのクラッチバックの中から、白のレース地の手袋、デザインのついたペン、ハンカチ、ハットピンを取り出して、机の上に並べる。

「こちらは全て、リリー・アスセーナス嬢の私物で間違いございませんね?」

「はい。念のためにとその時に持っていた私の物はその場にいらっしゃった騎士様にお預け致しました。ドレスも翌日、同様にそちらに引き渡しましたが?」

「確認させていただいております」

 スティーブン・シャーマン氏が殺害した、凶器が見当たらなかったため、現場に直行して騎士団の隊長(報告書にはデュランと名前があった)が現場で機転をきかせ、リリーの所持品を全て預かったのだ。

 それについては良い判断だと思うが、グウェンたち検事側に人間からすると逆に追い詰められる状況であった。

 と、言うのも、やましい事があれば、貴族籍の物であれば自分たちの権力を行使して、なんとしもて拒否してくれた方が、検事としては追及しやすい。

 逆に全てを差し出すということは自らが潔白であると言っているのも同様で、リリーの所持品を調べたが、不審な点やものは見当たらない。凶器がないということは、本人が特殊なスキルでも持っているのだと考えるのが筋で、

「失礼ですが、リリー・アスセーナス様のスキルの詳細を伺っても宜しいでしょうか。もちろん、今回の事件以外で、勝手に秘密を漏らしたりですとかそう言ったことは絶対にいたしませんので」

 グウェンがそう話を続けると、リリーはにっこりと笑顔を見せる。

「もちろん、これも捜査のためであるとわかっておりますから。ただ、私のスキルはご期待に沿えるほど、すごいものではなくてですね、”ソウゾウ”と呼ぶのですが」

「ソウゾウ?」

「ええ、ちょっと人よりも空想を巡らせることができるといいますか」

「わかりました。ありがとうございます」

 グウェンは書き留めながら礼を言う。

 実はこれも事前に調査でわかっていた内容の通りである。彼女はこのスキルを行使して、以前、王都で開業していたネイルサロンに通って来る客に対して、悩み相談を行っていたと。一部、界隈では有名な話だった。時に騎士団の頭を悩ませていた案件についても、解決の糸口をもたらしたこともあると、グウェンも噂話程度に聞いたことはあった。

 ここまでの質問はいわば社交辞令のようなもので、グウェンが今回一番聞きたい話は次の質問だった。

「リリー・アスセーナス嬢。貴女はどうしてスティーブン・シャーマン氏の元へ、危険な戦場を越えてでも行かれたのですか?」

 リリー・アスセーナスは、深窓の貴族令嬢。

 一方のスティーブン・シャーマン氏は魔石の製造そして武器商人として名を轟かせていた。両者の間に接点などないはずだ。しかもサマン重工の本社はアンバー王国とモーゼル国の戦地を隔てた向こう側、中立地域にある。本来であればその国の司法で裁かれるのだが、サマン重工の会社の本籍がアンバー王国にあること、そしてたまたまいち早く駆けつけたのが、アンバー王国の騎士達(交渉のために向かっていた)、そして、アンバー王国の貴族令嬢が関わっていると言う、異例の事態があり、今回の事件についてはアンバー王国で捜査を受け持つことのなったのだ。

 リリーは言いにくいのか口を閉ざしている。追い打ちをかける様に、グウェンは更に言葉を続ける。

「そもそも、シャーマン氏とは面識はあったのですか?」

「祖母の」

「ん? お祖母様?」

「はい。母方の祖母はフリッツ商会の出身で。その関係で、シャーマン氏がアスセーナス家にいらしたことはありました」

「ですが、今回の事とはそれはきっと関係のないことなのですよね?」

 彼女の近親者にフリッツ商会の関係者がいることももちろん重々承知。

 しかし、商会がらみでアスセーナス嬢が動いていたのだとしたならば、グウェンや検事側に商会側から何かしらのコンタクトがあるだろうと思うが、今のところは何もない。つまり、商会は何も関係がなく、アスセーナス嬢が単独で行っていることだとわかっている。逆に言えば、商会が絡んでくれていた方が、正直説明がつきやすくわかりやすかったのであるが。

 ともかく、彼女がどうして単独で動き、シャーマン氏の元に向かったのか。そこが今回の事件を解く鍵だと睨んでいるのだが、返答は眉をひそめるものだった。

「私の執事である、エドがシャーマン氏に捕まったと。風の噂で聞いたので、彼を助けるためにシャーマン氏の元に行きました。エドは良い人なのです」

「エドさんと仰るのは……確か、リリー・アスセーナス嬢がまだ幼い頃に貧民街でスカウトされた方と、子爵家の方から聞いた記憶が」

 グウェンは調書のぱらぱらとページをめくる。確か事前の聞き込み調査でそんな話を聞いていた。グウェンが該当ページを見つけるより先にリリーが頷く。

「仰る通りです。ここに居るアリ、そしてエド。二人は私が貧民街で二人を見つけスカウトしました」

 アリがリリーに紹介を受け、静かに一礼する。

「二人が今ここに居るのは、彼ら自身の努力の賜物です。確かに、私は二人をスカウトして、衣食住そして貴族令嬢に仕える執事やメイドとして仕えるための学びの場を提供しました。私がしたのはそこまでです。そこから、どこまで知識を自分のものに出来るか等はあくまでも本人の努力ですから。二人は私の想像以上に成長してくれました。最初は見向きもしなかった、アスセーナス子爵家の人間も二人について一目置くようになったのです。そして、私は子爵家を離れて、王都にネイルサロンの店を持てたのも、二人が居たからです。なのに、そんな彼がどうしてぞんざいな扱いを受けなければならないのか。それで、シャーマン氏に直接会って、話せばそれをわかってもらって、エドを解放してもらえるのではないかと思って……」

 貴族令嬢にありがちな、脳内がお花畑の思考の物言いである。

 彼女はまごうことなき貴族令嬢なので、納得できない訳ではなないのだが、世間一般で噂にあるリリー・アスセーナスの姿とはなんとなくかけ離れている気がした。しかし、それを本人に指摘したところで、どうしようもない。新人であるグウェンには、彼女を言いくるめるだけの言葉を持ち合わせていない。

「でもよくシャーマン氏が、会談を快諾しましたね」

 悔し紛れにこぼした言葉だったのだが、一瞬、リリーが無表情になったのをグウェンは見逃さなかった。

「そう言われてしまうと、私もどうしてかという理由まではわかりかねますが、シャーマン氏は人の心を持った優しい方だったのでしょう」

 憂いた笑みを浮かべ、ティーカップを持つリリーの姿を見て、その言葉以上の何かがあるようには思わなかった。何度もグウェンは思うが、リリー・アスセーナスとスティーブン・シャーマンの直接の接点がそもそも見当たらない。つまり、動機が不明。なのに殺害が可能な人物は、目の前にいる彼女だけなのだ。

 周囲の噂や、リリー・アスセーナスの人柄を聞くと、家族想いのごく一般的な貴族令嬢だと誰もが口をそろえる。そこから考えられるとすれば、もしかしたら、フリッツ商会、アスセーナス子爵家とスティーブン・シャーマン本人、もしくはサマン重工との間で何等かのトラブルがあり、その解決に当たって、彼女が独断で動いた可能性だ。ここについては後程、調査をしてみる必要があるかもしれないと思い、ノートの端にメモを取る。

 他に新しい情報の材料がない限りこれ以上たずねても堂々巡りを繰り返すだけだろうと思ったので、

「ありがとうございます。今日はこの辺りで」

 そう言って、ノートなどの出していた一切を鞄に詰め込み、立ち上がろうとしたところで、

「あの……」

「ひゃい」

 まさか声をかけられると思ってもみなかったので、思わず、変な声が出てしまい、こほんと咳払いした。

「検事官様はこの後、少しだけお時間ありますでしょうか?」

「えっと、あ……はい……」

 断ろうと思った。断りたかったのだが、嘘の点けないグウェンは無意識にそう口走っていた。

「私がネイルサロンを経営していたのは、多分ご存知かと思うのですが、ここにいると、なかなかネイルの施術が出来なくて。――あの、文句を言いたい訳ではないので、誤解なさらないで欲しいのですが、ただ漫然と過ごしているだけだと、腕が錆びついてしまいそうで。もし宜しければ、グウェン様のネイルのケアを、少しだけお任せいただけないでしょうか?」

「えっと……えっと……」

 グウェンは自分の理解の範疇を越えたリリーの質問に凍り付いた様に目を白黒とさせた。

 リリーはグウェンを見て、にっこりとほほ笑んだ後、控えていたアリに視線で合図を送る。アリは軽く一礼したあと、テーブルの上にグウェンが今まで見たこともないような道具を一式並べて行く。

「失礼致します。爪は、切り揃えられていて、きれいですね。少し色を付けたりするのは業務上、難しいでしょうか?」

 リリーに手をつかまれ、やわやわと触られ、グウェンの頭の中は大混乱を起こしていた。

「かなり昔は、難しかったと聞いています。今は、だめと言う訳ではないと思いますが……」

 グウェンはそう言って唇をかみしめる。ただ、一言。断りの言葉を伝えるだけでいいのに、どうしてもその言葉が出てこない。

「派手な色はやめて、肌馴染みの良い色を合わせれば大丈夫そうですかね?」

「えっと、あ……はい」

「かしこまりました。お任せ下さい。あ、お代などは不要なので。色々、私と金銭のやり取りがあると立場上大変だと思いますし、あくまでも私の腕がなまらない様にご協力いただいたという名目で」

「はい。では、あの……よろしくお願いいたします」

「こちらこそよろしくお願いいたします。まずは、少し爪やすりで形を整えて、甘皮のケアをしていきますね」

「はい」

 聞きなれない単語に頭がさらにショートするのを感じながらも、されるがままにしているのは、リリーの話しが上手いからか、はたまた、グウェンが口にはせずとも、本当は心の奥深くでは好奇心を持って、やってみたいと望んでいたことだったからか、今、大混乱を起こしている自分の頭では、判断はつきかねた。

 ただ自分で短く揃えておくだけだった爪が、リリーに爪やすりで整えてもらっただけで、形は美しくなり、その爪を見たグウェン自身がわくわくとした気持ちになったのは本物だった。

「あの、変な言い方ですけれど、またこちらにいらしてくれますか?」

 リリーは作業に集中したまま、言葉だけそうこぼした。

「えっと……はい。私は今回の事件の担当検事ですので、アスセーナス様の潔白が証明されるか、もしくは事件自体が解決するまでは、こちらに伺います。私に会うのは、億劫だとは重々承知しておりますが、これも必要なことですので、ご容赦いただければと思います」

「それならば、むしろ好都合です」

「はあ」

 不意にグウェンは自身の学生時代を思い出していた。

 勉強ばかりで、身なりなんかに全く気を遣わなかった彼女は、当然の如く、周囲から敬遠されていた。

 授業もいつも一人だった。

 きらきらと着飾って、楽しそうに学校に来ていた、生徒たちを横目に見ながらも、グウェン自身は検事になるために頑張らなければならなかった。

 あの人達と自分は違うのだと。

 今思えば、そうやって、自ら他者との間に線引きをしていたのだ。だけど今、磨かれていく自身のネイルを見て、本当はあの時、彼ら彼女達の様にしたかったのかもしれない。今更そんなことに気が付いたグウェンはそんな過去の自分に呆れて、おかしな笑みがこぼれる。

「じゃあ、ベースジェルを塗布していきますね」

 リリーは見たこともない筒状の容器から透明の粘液を筆ですくい上げると、グウェンの一本一本に塗るというよりものせていく。

 手慣れた手つきに、本当にネイルサロンを経営していたのは嘘ではないのだとわかる。つまり、片手間でやっている訳ではないのだと。

「じゃあ、このライトに中に手を入れてください」

「ライト?」

 リリーは見たこともない、小さなドーム状の恐らく、魔道具を指した。

「熱いと思ったら、一度手を出して、再度手を入れていただければ大丈夫ですので」

「わかりました」

 グウェンは恐る恐る手を入れる。手が入ると、ピカっとまるで音でもしたかのように庫内が一斉に光り出す。その明るさは、まともに目を向けていられないほどのものだった。

 リリーはその間にもせっせと今度は反対の爪にベースジェルと言った、透明の粘液をのせていく。

「熱くないですか?」

「あ、はい。大丈夫です」

「無理しないで、熱いと思われただら、手を出していただいて大丈夫ですからね」

 リリーが言った様に、ベースジェルの仕組みはわからないが、恐らくライトの光に反応する溶剤で、ライトに当てられると爪の辺りが確かに熱を持った。しかし、我慢できないほどではなかったので、そのままにしていた。多分、熱いとかしんどいという感情よりも、物珍しいくわくわくとする気持ちの方が自分の中で勝っていたのだろうと思う。

「じゃあ、そちらの手をライトから出していただいて、今度はこっちの手をライトの中に入れて下さい。それから、色ですけれど、希望の色ってあります?」

「いいえ」

 グウェンは即座に首を横に振る。希望もなにも、どうしたらいいのかわからないというのが正しい自分の気持ちであった。

「お仕事柄あまり目立たない色の方がいい。とすると……」

 リリーはそう言って、机の横に置かれた小箱の引き出しを開けてうーんと唸っている。

 何かと思って、ちょっと腰を浮かせて、その小箱の引き出しに視線をやると、ベースジェルと呼ばれた筒状の容器よりも二回りほど小さいものが、所狭しと、引き出しの中に並んでいた。

「向こうにある分もお持ちいたしましょうか?」

 すかさず控えていたアリが声をかけるも、

「ううん。あったから大丈夫。ありがとう」

 リリーはその引き出しの中から、ピンク色の容器を取り出す。蓋を開けると、乳白色がかった桃色の溶剤が見えた。

「この色をうすく塗って行こうと思うんですけど、どうでしょう?」

「お願します。あの、全くもって初めてで、わからないのでお任せします」

「すみません。なんだか私が勝手に押し進めてしまって」

「あ、いえ。失礼な言い方だったらすみませんが、ネイルなんて私の人生では全く縁のないことだったので。だから、あんまりよく知らないものですから」

 わからない――その一言を、リリーの前で口にすることに抵抗がなかったのは、一重にそれがリリー・アスセーナスの人柄かもしれない。検事官の肩書を背負うグウェンは『わからない』と言う言葉は時に自身の敗北を言いする言葉だ。

 彼女のネイルサロンに訪れていた客たちが各々の悩み事を相談していたと言う。今、自分がその場に居て、そうなるのも分からなくないと思った。

 リリーがカラージェルを筆に取った時は乳白色の桜井色だったのだが、グウェンの爪の上に色を乗せると、色が溶けていくように爪と肌の色になじむように、色が消えていくように見えた。だからと言って、色がついていないのかと聞かれると、そうではなく、他のまだ色をのせていない爪の色と比べると、うっすらと桜色に色づき、明るく血色がよく見える。

「これくらいの色でしたら大丈夫そうでしょうか?」

「大丈夫だと思います」

 そもそもジェルネイルをして、仕事に行ったことがないので、良いか悪いかなんてわからない。でも、雑務を担当している若い女性スタッフたちは、(グウェンも充分若い部類に入るのだが)もっときらきらとしたネイルをしてるので、グウェンの今の爪の状態など問題ないだろうと思われる。

「じゃあ、これで仕上げていきますね」

 リリーは全ての指に色をのせた後、カラージェルの蓋を閉め、筆先を白い柔らかな紙ペーパーでぬぐうと、ベースジェルとはまた違った容器の、透明のジェルを筆にとり、再度、爪に塗布する。

「本当はもっと厚みを出して、ぷっくりとフォルムを作るのが好きな方が多いのですけれど、検事官様はお仕事のことを考えると、なるべく自爪に近い方がいいのかなと思いましたので、そのように仕上げていきますね」

「はい。お願いします」

 リリーが何を言わんとしているのか。ネイルの知識も経験もないグウェンにはわかりかねたが、美しく仕上がる自分の爪に対して、不安も不満も全くない。

 透明なジェルを塗布し終わった後に、再度ライトの中に手を入れる様に言われ、左手と右手を交互にドーム型のライトの中に入れる。

「熱くないですか?」

「大丈夫です」

 熱さはもう感じない。

 リリーは頷くと、筆先をまた白のペーパーで拭って、机の上に並べていた道具を片付ける。もうネイルの作業は終わりなのだろうとグウェンは思ったが、まだ手はライトの中に入ったままだった。ライト上に時計の秒針があり、グウェンが手を入れるとライトが自動的に点灯し、秒針も針を進める。リリーはその秒針を時折横目に確かめていた。

「じゃあ、ライトから手を出してください」

 ゆっくりとライトから手を出して、両手を揃えてリリーの前に差し出す。リリーは片手ずつネイルの状態をまじまじと見て頷くと、

「ネイルオイルを塗りますね」

 と言って、恐らくそのネイルオイルなるものを甘皮の辺りに小さな刷毛を使ってオイルをおとし、かるく指でもみこんでいく。

「これで完成です。いかがでしょうか?」

 リリーはにっこりと笑って、グウェンの手を離す。

 グウェンは両手をひろげ、自身の爪を確認する。自然と自分の瞳が、気持ちが輝くのを感じた。

「すごい。キラキラ」

 口にしてもっとなにか他に上手い言葉が見つからなかったと思いながらも、それ以上の言葉が思いつかなかったも事実であった。

「ラメなどは使用していないですが、やっぱりジェルの艶感って光できらきらしてキレイですよね」

 リリーが片付けを再開しながら、言葉を返す。

 学生の頃は勉強しかしてこなかった。自分自身を飾り建てるなんてことは初めてで。

 あの頃、横目にしていた、キラキラとした学生たちはもしかしたらこんな気持ちだったのかもしれないと思うと、とくんと胸が高鳴った。

「お引止めしてしまって申し訳ございません。なるべく早く施術をを思って努力はしたつもりなんですけれど、お時間は大丈夫でしょうか?」

「あっ、はい、大丈夫です。こちらこそ貴重な体験をありがとうございます………………次の予定がありますので失礼いたします」

 爪に見とれていた自分に気が付いて喝を入れるようい、あわてて、グウェン自身も荷物を揃えて黒革の鞄を急いで持ち上げ、立ち上がる。

「すみません。お仕事の最中に。他になにかお力になれそうなことがあればいつでもいらしてください。あ、でも、出来ればネイルの経過も確認したいので、一か月以内に来ていただければ助かりますので、よろしくお願いいたします」

「あ、はい」

 グウェンはやはり思考が追い付かず、くらくらとしながら、鉄格子からなんとか外へと歩いて向かう。

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