シュガーネイル
『ねえ、リリーさん。お忙しいとは思うのだけど、ちょっとだけお願いしたいことがあるの。宜しいかしら?』
「この後、もう間もなくトレヴィス夫人がいらっしゃるころですね」
帰った客に出していた、ティーカップを片付ける、アリに言われて、 トレヴィス夫人が意味ありげな言い方で、次回のネイルにしてはかなり早い日付で予約していたことを、リリーは思い出した。
「そうだわ」
「あの方は割合早くいらっしゃいますので、もうそろそろいらっしゃるころかと」
ちょうど、玄関のベルの音がした。
アリは使い終わったティーカップを乗せたお盆を持って、足早に部屋を出て行った。
リリーは作業用の机の上を片付ける。
程なくして、ノック音と共に、
「こんにちは」
トレヴィス夫人が顔を覗かせる。
年相応の皺は見られるものの以前のような影の深いものではなくなり、心なしか目の下に縁取ってたクマも薄くなった。
「お待ちしておりました」
リリーが立ち上がると、夫人の後ろから、リリーと同じくらいか。もう少し若いくらいの女性が夫人の後ろから、姿を現す。
「私の娘、グレース。今日は娘がネイルに挑戦したいと言ってね。ぜひリリーさんにお願いしたいと思って来たのだけど宜しいかしら」
リリーは前回のトレヴィス夫人の言葉は、このことだったのだとわかり、ほっとした。
「もちろんです。とびきり素敵なネイルにしましょう」
そう言って、グレースを机の前のソファーに勧め、アリが絶妙なタイミングでアリが簡易ソファーをもう一脚運んできたので、トレヴィス夫人はそこに腰掛ける。
「やってみたいと、ずっと思ってはいたのですが、機会を逃してしまっていて……」
「そうですね。一時期は戦争の影響でぴたりと、ネイルをやめられた方もいらっしゃいましたが、長い自粛生活で、そろそろ我慢も難しくなってきたのでしょう。最近では、公の場では手袋で隠しながら、ネイルを楽しまれる方が多くなってきたかなと思います。まあ、私も大きな声では言えませんが」
リリーがにこりと笑うと、グレースも笑顔で返してくれた。
「では、手を見せていただいても? 早速施術をはじめて宜しいですか?」
「お願いいたします」
グレースは両手を差し出した。
短く揃えてあるが、貴族の娘だけあって、欠けたり割れている部分はない。
「どんなネイルにしてみたいとか希望はありますか?」
「それが、どんなネイルがあるとか、いいとかっていうのがよくわからなくて。やってみたいという気持ちだけ、とてもあるのですが」
「こんな感じがいいとか、やってみたいと言うのはありますか? イメージがつかなければ、可愛い感じがいいとか、キレイな感じがいいとか」
「そうですね、可愛らしい感じがいいかなとは思います。母とは違う感じで」
「わかりました。色はどんな感じがいいですか?」
「パステル系とか、ふんわりとした色がいいです」
確かにトレヴィス夫人は、はっきりくっきりとする色を好んでいるが、グレースは色白でふわふわとした金髪の可愛らしいみためをしているので、ふんわりとした色の方が彼女の見た目によく似合うだろうと思われた。
「最近、グレースさんくらいの年代の方で、よく出るネイルがあって、シュガーネイルと言うのですけれど……見た方がわかりやすいですね」
リリーは手を止め、棚からシュガーパウダーを取り出してみせる」
「お砂糖みたい。きらきらとキレイ」
グレースは喜々とした瞳で見つめる。
「爪にのせると本当に可愛いです。今日はこれを使って仕上げましょうか?」
「ぜひお願いします」
グレースの表情を見て、思わずリリーは笑みがこぼれる。一旦、シュガーパウダーの蓋をきっちり閉めた。細かいパウダー粒子なのでこぼしてしまうと後々、始末が面倒なのだ。
グレースの手を再度取って、甘皮の処理を再開し、夫人の方にそれとなく目をやった。
「ご家族の皆さんはお元気ですか?」
「ええ、おかげ様で。息子のレンドルも一時期は本当にこのままどうにかなってしまうのではないかと思ったものですけれど、今は少しずつ、心も体も回復してくれていて。でも、回復したら、戦場には戻れなくとも後方の補給部隊に復帰したいと言い出しましてね。私としては、もうこれ以上あぶない橋を渡って欲しくないと思うのですけれど、戦況もはっきりとは言えませんが、あまり芳しくない様子ですし、息子も戦場で失った仲間たちの死に報いたいと。その強い思いがあるようです。ここまで息子がようやく前を向ける様になったのも、あの事件で息子の無実を晴らしてくださったリリーさんのおかげだと思っています。本当に改めてありがとうございます」
座ったままであるが、トレヴィス夫人と、続いてグレースが頭を下げるので、
「やめて下さい。私は自分が正しいと思ったことをしただけなので」
リリーは思わず、作業の手を止めて、頭を下げる。
あのグレースの婚約者の一件があって(注:ボルドーネイル参照)からもトレヴィス夫人は変わらずに、ネイルサロンに通ってくれていた。
その時の話をするのは何となくためらわれていたのだが、今日、当の本人であるグレースがわざわざ来てくれたのは、そういう事なのだろうと思い、ちらりと言葉にしてみたのだ。
リリーもグレースのことは心配していた。一時とは言えども、婚約をかわしていた相手が、あんなことになってしまっては、グレースは意気消沈し、レンドルも自分自身の行為を責めて、逆に精神病を悪化させてしまっているのでは、と思ったが、グレースの表情は明るく、レンドルも前向きに、体調も快方に向かっていると聞いてほっとした。
「私からもお礼が言いたいと思っていました。あのまま、結婚を決めていたら……今頃どうなっていたのか、自分でもわかりません。最初、あの人の事を聞いた時は、私も愕然と致しました――私の前ではとても良い方だったんです。ですから、そんな一面を持っていたのかと、怒りと絶望と自分のふがいなさと。一時は兄を、全てを恨んでも、今は周囲と家族の支えもあってここまで乗り越えることが出来て。兄には今ではとても感謝しています。もちろんリリーさんにも。本当にありがとうございます」
グレースの表情も声も、もう憂いの色はなく、真直ぐな瞳には曇りも影も見当たらない。
「いえ、先ほども申しました通り、私は私がやるべきことを行っただけですので、グレース様が今、前を向けるようになったのは、ご自身の努力とご家族の支えがあったからにほかなりません」
トレヴィス夫人と、グレースは目を顔を見合わせ、お互いに笑った。
「リリーさんはもう少し、ご自身のされた事に誇りを持つべきです」
と、トレヴィス夫人。
「ネイルにチャレンジしてみようと思えたのも、少しずつ外の世界に視野を向けて行きたいと思ったからで。それで、先ず一番最初に思ったのが、リリーネイルに行ってみたいということでした。どうしても直接会ってお礼がしたかったのです。大分遅くなってしまい申し訳ございませんが、あの時は本当にありがとうございます」
リリーに手を取られたままで、座ったまま頭を深々と下げるので、
「そんな、やめて下さい。良くない過去は忘れて今を生きることが大切です」
と、グレースを制した。
グレースは顔を上げ、清々しい笑顔を見せる。リリーはグレースの手元に視線を戻して、
「――あの、こんな感じで爪の形などは大丈夫ですか? ここからベースジェルを塗布していくので一度、ご確認ください」
グレースは自身の手を見て、
「大丈夫です」
頷いた。
リリーは一言断ってから、立ち上がると後ろの棚からベースジェルなどの一通りの道具を用意している時に、そう言えば、夫人とグレースの飲み物がまだ届いていない事に気が付く。
(アリはどうしたのかしら)
ちょうど、そう思ったと同時に、ノック音がして、アリがお盆を持って入ってきた。
「お待たせいたしました――失礼致します」
トレヴィス夫人とグレースの隣に、湯気の立つティーカップが置かれる。
リリーは横目にアリを見ると、珍しく目が合った。アリはティーカップを並べ、つかつかと、リリーの方に寄って、一通の手紙を差し出した。
「また?」
リリーの小声に、アリはこくりと答える。
「内容は前と一緒です。すみません、ただ早めにお伝えした方がいいかと思いまして」
リリーは口元を結び、笑顔を作る。
「ありがとう」と、言い、アリは小さく頭を下げた後、何事もなかったかのように部屋を出て行った。
リリーの元に最近届く、匿名の手紙がある。
内容はいつも一緒だ。
ただの貴族令嬢ではないことを、知られて
すらいないと思っているのか。
稀有な、スキルであるソウゾウを使っ
ていること。それを秘匿にしていることを知っている。
文章はいつもそこで終わっている。
新聞記事などの文字を切り取って作られた、ヘンテコな文章で、いつもなら、投げ捨ててしまうのだが、リリーのスキルを知っているとなると話は別で。この戦時下で、スキルを知られてしまった場合、どうなるか。言われずともリリーが一番わかっている。
このスキルの本当の能力を知っているのは、リリーの他にアリとエドだけのはずなのに。
リリーは、手紙を机の引き出しに仕舞い込むと、気持ちを切り替えて、
「じゃあ、ベースジェルを塗布していきますね」
グレースのネイルに意識を集中させる。
左手の人差し指にベースジェルを塗布し、爪をライトに入れる様、指示した後、今度は右手の人差し指と、一本ずつ塗布し、ライトに入れてもらう。
「ねえ、リリーさん。ちょっとだけ、別件なのだけど、相談にのっていただいても宜しいかしら?」
「ええ、私で宜しければ。作業をしながらになってしまいますが……」
「もちろん大丈夫です。お話しと言うのは……」
「あ、その前に、すみません。ベースの色はどうします? パステルカラーとまでは伺いましたが、ピンクとか、青とか、黄色とか」
リリーはそう言いながら、色のサンプルの表を見せると、
「わあ、たくさんあるんですね」
グレースは目を輝かせた。
「もし、ピンとくるお色がなければ、まぜて作ることもできます。たとえば、このピンクにこのグレージュの色を混ぜて、すこしくすんだ感じにするとか」
リリーは該当の色を示しながら説明した。
「気になるのは、白と、こっちのピンクなんですけど、どちらにするか決められなくて……」
「両方の色を使いましょうか? 指ごとに色を変える事もできますよ」
「本当ですか?」
ぱっとグレースの顔が明るくなる。
色を手に合わせて見て、人差し指と小指の色をピンクに、それ以外の指は白にすることを決めた。
「すみません。話を遮ってしまって。それで、ご相談ってどんなことです?」
リリーはカラージェルの塗布を始める。
「匿名のいたずらともとれる、不快な手紙が巷で出回っているのをご存知です?」
リリーは一瞬、心の根を掴まれたようだったが、何事もなかったかのように、
「そうなのですか?」
と、話を切り替える。
「差出人の名前は書かれずに、新聞記事や本の文字のを切り貼りして手紙の文章をつくるんです。だから、手紙を受け取った側は、その文面だけでは差出人が誰か全くわからない状態で」
「書かれた内容が、好意的なものであればいいですけれど、そうじゃなかった場合は、とても不愉快な話ですわね」
リリーはなるべく冷静に言葉にしたつもりだったのだが、どうしても自分自身の気持ちを押し殺すことが出来ず、若干、強い物言いになってしまったことに、少なからず罪悪感を覚えた。グレースはなにも悪くないのに。
「ええ、仰る通り」
リリーの器具には全く気が付かない様子で、グレースは話を続ける。
「実は、私のところにも最近、そのような手紙が届いたのです。差支えなければ、見ていただけませんか?」
グレースは施術をしていない片方の手だけで、器用にハンドバックを開けると、一通の手紙を取り出した。
「見せていただいても?」
グレースは頷く。
ちょうど、全ての指のカラージェルの塗布を終わったところだったので、リリーはグレースにネイルライトに手を入れてもらうよう促し、シュガーパウダーの準備の傍ら、差し出された手紙を取った。
あの犯罪者に
いいようにされ、婚約者だっ
たことが、恥ずかしくな
いのか
不思議なとこで改行されているあたり、リリーに届いている手紙の文面と似ているところがある。
たまたま切り貼りしている文字の繋がりの関係で(切り貼りされている文字は、【あの】【犯罪者】【に】のように、単語で切り取られているものがある)上手く文字を繋げられず、このような文章にしているのだろうかと、思われた。
「一体、誰がわざわざこんなことを。悪戯にしても度がすぎると思います」
リリーは思わず、自分のことの様に怒りに体を振るわせる。
グレースは眉尻を下げる。
「そんな風に言っていただけて、なんだか申し訳ないです。このやり口の手紙が多く出回っているは社会問題にもなっておりまして、一部の新聞などでは、特集を組まれて真相究明にあたっているとか」
「そうなのですか?」
つまり、このような手紙が他にも多く出回っているのだと、そう考えると、手紙の差出人は、リリーやグレースなど、特定の人物をターゲットにしている訳ではなく、社会全体を相手に取り、何かを企んでいるのか。リリーは頭にのぼった感情が抜け落ちていくような感覚を覚えた。
「そのような記事を掲載していたのは、子供だましの情報しか書いていないゴシップ記事なので、リリーさんがご存知ないのも仕方ないのかもしれません」
グレースはリリーが見せない様にしていた、心の動転ぶりをフォローするようにそう言ってくれたのかもしれない。そう思うと、申し訳なくなり、尚更冷静さを取り戻すことが出来て、
「と、言うことは、不特定多数の人物に文面は違うかもしれませんが、似た様な手紙が出されているのですね。でも、その理由が全く見当もつきません。一体、誰が何のためにこんな悪質なことをされるのか」
リリーは辛辣な言葉を並べるも、一方の手先で、トップジェルを塗布してシュガーパウダーをふりかける、繊細な作業を行っていた。
「その目的が全くわからないので、都市伝説の様な記事ができてしまうのよね」
紅茶に口をつけて、トレヴィス夫人がため息でも吐き出すようにそう言った。
「なんだか、その話だけ聞きますと、私達のわからないところで、他国からの情報統制を強制的にさせられている。そんな気分にさせられますね」
リリーは冷静に言葉を返しながら、自身の元に届くあの、手紙のことについて考えていた。
もしかしたら、他国から国の中枢部に対して、何等かの攻撃があって――前世でいうサイバー攻撃のような――それで秘匿にしていた情報が漏れだし、リリーのもとにああいった、脅迫めいた手紙が届いたのかもしれない。手紙を出した理由は、国民の関心を反らすためとか。もしくは、単純に悪意を持った第三者がリリーのスキルを知って嫌がらせ目的で行ったことか。
「そう考えると、怖いですね」
グレースはそう相槌を打つが、彼女の関心は、自ら相談した内容であるにも関わらず、その話よりも、彼女の瞳は完成してく自分自身のネイルの方に注がれていた。
「そのように考えると背中がゾクりとします。後、考えられるとしたなら、プラス思考で考えると、他国に情報を流されまいと、逆に情報をあえて混乱させるようにしているのかもしれない。そうも考えられますね」
「確かに。他国から目に見えないところで侵略されているなんて考えたくもないですから。そうではないことを祈りたいものですわ」
トレヴィス夫人がそう言った所で、ネイルが完成した。
形を整え、ネイルオイルをつける。
「これで完成です。いかがでしょう?」
グレースは両手をひるがえしたり、握ったりしてみせながら、キラキラと光るネイルの具合を確認していた。
「とっても可愛いです。ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべるグレースを見て、リリーはこの異世界でも仕事のやりがいは変わらないのだと改めて思う。
「見せて、まあ、素敵。いいんじゃない?」
トレヴィス夫人が覗き込んでグレースの爪を確認し、にっこりと笑みを浮かべる。夫人の及第点ももらえたようで、リリーはほっとしていた。
「これから約束があるんです」
グレースの表情は明るい。
「ご友人の方? それとも……?」
「実は、ちょっと気になる方がいて、その方と」
はにかむグレースの笑顔はこちらまで元気になれそうだった。
トレヴィス夫人もつられるように、笑顔を見せる。本当にグレースが元気になったのだと思うと、リリーの笑みはさらに深まった。
「さっき見せた手紙もその方からいただいたのです。面白くって、とても遊び心のある方で、たまには流行を取り入れてみようと、仰ってくれて」
「えっ……でも、先ほどの手紙ってあの脅迫めいた……?」
リリーの言葉にしたり顔で、トレヴィス夫人とグレースは顔を見合わせて微笑んだ。
「先ほどの、あの匿名の手紙の話には続きがあって、そのような手紙を模して、連絡を取り合うのが今、流行しているんです」
「ん?」
リリーは最大限に首をかしげる。
「ネタばらしをするとですね、あの手紙はこれから会う約束を取り付けた方からいただいたものなんです。もう一度、見ていただいて」
リリーの目の前に先ほども見せられた、不可思議な手紙が置かれる。
「この文章の頭文字を取ってみてください」
「あ・い・た・い……えっ、なるほど」
指でなぞった後、珍しく驚く様子のリリーを見て、グレースの笑みが深まる。
「言葉遊びとでもいいますかね。今、こんな手紙のやり取りが流行しているんです」
「悪趣味と言えば、悪趣味ですけどね」
トレヴィス夫人がそう付け足す。
「楽しんできてください。上手くいくことを願っています」
「ありがとうございます。でも、この先のことはわかりません。あの人ももしかしたら戦場に行くことになるかもしれませんし」
グレースは悲し気に微笑む。
◇
二人が帰った後、リリーはアリに手紙の文面を見せながら、頭文字を指で押さえた。
アリは大きく目を見開く。
「た・す・け・て……?」




