夜空の夕映えネイル 7
「アダム・ルイスが亡くなって一か月が経ちますが、事件の進展はまだないのでしょうか?」
リリーネイルを訪れた、ドロシアは開口一番、そう聞いた、
「そうみたいですね。ドロシアさんはお変わりありませんか?」
「ええ。おかげ様で」
ドロシアもこの一か月は何もなく過ごしていた。だだ、
「旦那様はまだお帰りにはなられていません」
「まだ戻られていないのね」
リリーはそう言いながら、手際よくドロシアの爪にやすりをあて、形を整えていく。
「ええ」
ドロシアはそう答えたが、それはつまり、もうラルフが亡くなっている可能性があると言っているのと同義であった。結局彼を守ることが出来なかった。そう思うと自分が不甲斐ない。
「ドロシアさん。なんでも決めつけてしまうのはまだ早いわ。伯爵様が生きている可能性だって十分にあるのだから」
「でも、どう考えても」
リリーは手を止めて、そう言葉をかけてくれたが、ぽっかりと空いた胸の穴は埋まらない。
「じゃあ、こう考えてみるのはどうです? 伯爵様は避けられない敵の奇襲にあって、間一髪で逃れた。だけど自身の身を守ることが最優先で、連絡を取ることが難しい状態にある」
「そうかもしれません。そう思うように努力します」
リリーが根気よく、ドロシアに言葉をかけてくれたので、次第に気持ちが落ちついてくる。リリーはふっと微笑んで作業に戻るも、そのまま話を続けた。
「もちろん、私のこの話だって、一つの可能性にすぎません。ですから、真実はわからない。でもわからないことを議論していてもいつまでも結論はでませんからね」
リリーは手際よく作業をすすめ、ベースジェルを塗布する作業を始めた。
「今日はどんなデザインにしますか?」
「えっと……」
急に聞かれて言葉につまる。まさか全く考えて来ていないとも言えないなと思いながら。
「近日中にパーティーに参加されるご予定などは? その時のドレスのお色に合わせることもできますよ」
「そういえば、フォックス家のパーティーに。リリーさんのところにも招待状が来ているのは? フォックス家の若夫人である、ミネラ様が貴族を対象として、招待状を出していると聞きましたけど」
ドロシアの言葉に「え」と、素っ頓狂な声を出す。
顔を上げた垣間見えたその表情は、年相応の少女そのもので、ドロシアは彼女にべったりと頼り切っているが、リリーだってドロシアとそう年齢が変わらない一個人の普通の女性なのだとそう気が付いた時、心に少しだけ余裕が出来て、微笑むことが出来る様になった。
「貴族に例外はないはずですから」
ドロシアは穏やかにそう答えながら、過去に参加した夜会でそう言えば、リリーの姿をみかけたことがあっただろうかと思い返してみた。特にフォックス家は自身の公爵家としての威厳を誇示するため、年に一度パーティーを催しており、ドロシアは貴族の義務としてパーティーに参加していたが、彼女のドレス姿はどうも記憶の中に見当たらない。
「もしかして、リリーさんは今まで一度も参加されたことがないのですか?」
そう言われ片腹が痛いのだろう。リリーはわかりやすく視線を外した。
「ええ。私がこんなことを言うのはオカシイと思われるでしょうけど。あまり貴族の形式ばったところは苦手で。うちの執事に、相応の理由をつけて断ってもらっていたの。でもこのネイルサロンが軌道に乗れば乗る程、やっぱりお客様からそういった誘いがある訳でして……」
「フォックス家は最近事業があまり上手くいかないと、確かそんな噂もありますが、それでも現在のアンバー王国のキーパーソンであり、上位に位置する高貴な家柄ですし」
ドロシアの言葉に曖昧に頷いたリリーである。机の上のベルを鳴らして、執事を呼ぶと、ベースジェルの塗布作業に戻った。
「お呼びですか?」
彼の名前はエドと言ったか。銀髪の執事が顔を覗かせる。
「フォックス家のからの招待状はあるかしら?」
「ええ、まあ」
エドは豆鉄砲を食らった様な表情を一瞬見せたが、すぐに無表情になる。
「確かに来ておりました」
「まだ、不参加の返事は出していない?」
「はい。今、ちょうど出そうとしていた所です」
「よかった。それちょっと止めて頂戴。招待状をここに持ってきてほしいの」
「かしこまりました」
扉がぱたりと閉められるも、少しして、サロンの扉が開く。エドは上質な用紙でつくられた封筒を持ってくると、リリーに差し出した。他に用事があるかどうかを聞き、リリーが無いと答えたので、いつもの取り澄ました表情で部屋を出て行った。
リリーは作業の手を止め、招待状の封を開ける。
見る限りとドロシアに届いたものと形状は一緒であった。違ったのは中の招待状を取り出した際に、ぴらりと小さなメモが舞い落ちたこと。落ちたそのメモを拾い上げ、リリーは声に出して読んだ。
「お忙しいと存じますが、是非来ていただけると幸いです。フローレンス」
「フローレンス様とは、どなた様でしょうか?」
フォックス家に、その様な名前を持った血筋の方はいないはずとドロシアは思っていると、
「フォックス公爵家に勤めるメイドの方。彼女も男爵家出身のご令嬢よ。ネイルサロンのお客様でもあるの」
「なるほどそうなのですね」
思いのほかリリーは難しそうな表情を浮かべる。
「なにか――嫌な予感がするわね。でも、もしかしたら今回の事件を解決するための糸口があるのかもしれない」
リリーはそう言って、招待状をメモ紙を机の脇に寄せる。何がそんなに疑問なのかと、たずねようとしたところで、リリーの方からフォックス家のパーティーではどんなドレスを予定しているのかと聞かれたので、
「薄いグリーンのドレスを考えていますの」
そう答え、ドロシアが思った疑問は口にする機会を失ってしまった。
「素敵ですね、招待状にはお昼からとお時間が書いてありましたし、この時間ですと、きっとお庭でのガーデンパーティーなもあるのでしょうか」
「フォックス家のティーパーティーはお昼にはじまって、夜まで続くんです。終わりの時間には花火の打ち上げもあってとても華やかですよ」
ドロシアに説明に興味を持ち、リリーは楽し気な表情を見せるかと思ったが、実際はその逆で難しい表情を見せる。
「――ともかく、そうね。グリーンのドレスならシルバーやホログラムでキラキラとさせたらいいかしら。いえ、でもあえてもう少し派手なネイルのデザインをしてみてはどうかしら」
ドロシアがネイルライトに手を入れている間、ぶつぶつと呟き、立ち上がると後ろにあるジェルのコンテナが入った棚をがさがさと見始める。
「お任せいたします」
小さく会釈をして、リリーの後ろ姿をながめていた。
ベースジェルを塗布すると、赤とネイビーの色のジェルを爪の斜め半分ずつに色をのせる。
ちょっと派手かな、なんて思うけれどお任せでと言ってしまったので、そうも言い出せない。
金色のラメの入ったジェルで色の境目をぼかし、細い筆で線を引いて、紋様を描く。見たこともないものだった。だけど、完成してみると、スタイリッシュで素敵なデザインだ。
出来上がったデザインをリリーは「夕映え時の空みたいで綺麗でしょ」と言ったので、「暮れなずむ夜空みたいです」と返した。
自分の爪が綺麗になるのはそはそれで心が和み、いいものだと見とれる。
「ありがとうとざいます」
顔を上げてみたリリーの表情はドロシアの感情とは正反対だった。
「ドロシアさん。先ほどもお伝えした様に、多分、フォックス家のティーパーティーはある意味――危険です。私も行きますが、気を付けてください。あまり会場の中では一人でいることを避けて、なるべく誰かといらっしゃるように気を付けてください」
リリーの真摯な言葉にこくりと頷く。
◇
「流石。素敵です奥様。お気をつけていってらっしゃいませ」
パメラのその言葉と共に、屋敷を送り出され今、馬車に揺られている。
昨夜、執事のピーターにラルフからコンタクトはあったかと聞いてみたが、色よい返事はもらえなかった。デュランはラルフの隊から連絡があれば知らせると約束してくれた(仕事の内容など言えない内容があるがと言葉を添えて)。しかし、それっきりで何も連絡はない。
馬車はゆっくりと停車すると、目の前にはフォックス家の大きな屋敷がそびえている。
ふうと息を吐いて、馬車を降りた。
アンバー王国の中でも指折りの高位貴族であるフォックス家。表向きはそうであるが、実は不穏な噂もある。
フォックス家の大奥様は隣国のモーゼル出身の方だ。当初の目的は友好関係を築くためのリレーションシップの象徴だったが、現在ではモーゼルがアンバー王国を蹂躙するための布石だったのではないかと嫌味が飛び交う程。その位、二国間に暗雲が立ち込めているのだ。
エントランスでは案内係のボーイとそれを取り仕切る、老齢のバトラーの姿がある。
潤沢な人材を持っている公爵家に思わずため息が漏れる。
「ようこそお越しくださいました」
ドロシアに気が付いたボーイが明るい声をあげる。
「クレイグ伯爵の奥様ですね。ようこそ」
ボーイの挨拶の合いの手に、バトラーがよどみなく畏まったあいさつ文を続ける。顔を見ただけで、家名やその人に纏わる全ての情報を把握しているのだろう。そう言った優秀なバトラーや公爵家を支える有能な人材に改めて舌をまくばかり。クレイグ伯爵家も悪くはないと思うが、こう言った有能さと比べると、伯爵家の使用人にそれは見いだせないなと思った。
ドロシアはエントランスをくぐり会場のホールへ向かう。
到着した時間は午後二時。
会場は思った以上に来客の人で溢れていた。
公爵家主催と言う箔があるからか、来客の人々はそれぞれ煌びやかな服装をしている。リリーがもう来ているかどうか探してみたが、見当たらない。
そう言えば、何時にどこでと言う詳細までは話していなかった。
リリーの忠言通り、なるべく一人にならないように。顔見知り令嬢に声をかける。
「エミリー様、お久ぶりでございます」
すらりとした体に纏う柔らかなシフォンのドレスをまとったのは、エミリー・マックリーン。辺境伯のマックリーン家に嫁いでからは、連絡も疎遠になってしまっていたので、会うのは久しぶりだ。
エミリーは振り返ると、満面の笑みを浮かべる。
「お久しぶりね、ドロシアさん。お元気でした? ――結婚おめでとうございます」
昔とかわらない彼女の話し方にほっとする。
エミリーとマックリーン辺境伯は幼い頃から仲睦まじい様子だったので、便りがないのは良い便りと言うし、特に気にしていなかった。今日エミリーを見て、その通りだったことに自然と心からの笑みがこぼれた。
「ありがとうございます。色々とあったのだけど」
彼女はドロシアが前の婚約者との経緯も知っているので、一瞬顔を曇らせたが、
「少し、心配していたの。そう簡単には私も王都に戻って来られないでしょう? 貴女の結婚の事を聞いて。もちろん結婚式にも参列させてもらったけど、こうやって話なんてする時間はなかったから」
婚約が破談になり、都合よく宛がわれた婚約者との結婚。その状況をこうやって気にかけてくれる友人がいることに心が温かくなる。
「貴族の務めですから。いつまでもくよくよしてはいられないと思って。それより辺境伯での生活はどう? ぜひお話を聞かせて頂戴」
二人は飲みものを持つと、公爵家の広大な庭園にでる。外にもいくつものテーブルが設けられており、そこで歓談する人の姿もちらほらとあった。少しはなればテーブル席に並んで座る。猫足の豪奢で白く真新しい椅子だった。
「旦那様とはどう? って貴女の顔を見ていたら聞くまでもないわね」
ドロシアの問いにエミリーは顔を赤らめる。
「今日はご一緒ではないの?」
「ええ。今回はそもそも王都には来ていないの。あまり大きな声では言えないけれど、騎士団の方々が秘密裏に辺境伯の領地にきていて、――そういえば、クレイグ伯爵もちらりと見かけたわ。一か月ちょっと前のことで。私はそれから程なくして、細々と用事を済ませたりなんなりで、王都に来てしまったのでその後のことはわかりませんけれど」
ドロシアは思わず、
「旦那様は辺境伯でどんなお仕事をされていたのか、もしご存知でしたら伺っても?」
エミリーはふるふると首を横の振った。
「詳しいことは何も……辺境伯様は多少ご存知の様子でしたが、国家機密に関わわることだからと。でも、実は騎士団の皆さまは、一度屋敷にいらっしゃいまして。お出迎えの際にクレイグ伯爵と直接お話をする機会があったのです。その際、私の方から『奥様の昔からのお友達なんです』と、お伝えしましたら、驚きの後にとても柔らかい表情をされて『そうですか』と仰られて」
ラルフの様子を聞いて、少しだけ胸がきゅっとなる。彼も笑う事があるのだと、意外な気持ちと気恥ずかしいと。その感情を隠すのは難しく、それに気がついたエミリーはふっと笑顔を見せた。それからドロシアのネイルに視線が行く。
「すてき。ネイルサロンで?」
「ありがとうございます。ええ。フリッツ商会のサマンサ様からご紹介をいただいて、リリーネイルと言うサロンに」
「本当? 私も王都に居た時は通っていたわ」
「そうなんですね?」
二人の共通が生まれてなんだか嬉しくなる。
「辺境伯に行ってからはなかなか行くのが難しくって。でも久しぶりに行きたいなあと思っていたの。でも、ばたばたしててまだ連絡すらできていないのだけど」
「今日、リリーさんこのパーティーにいらっしゃると聞いているわ」
「あの方が? 珍しい」
エミリーは驚いていた。
その理由についてドロシアが無理を言ったのだと言うべきか。でも、それを話す場合はあの白昼夢についても話さなければならないと、頭を悩ませていると、リリー本人が二人を見つけてこちらにやってきた。
装飾のないグレージュ生地のシンプルなドレスだが、生地にこだわりがあるようで、光の加減できらきらときらめいたり、不思議な色合いが見られるものだ。リリーは隣に座る、エミリーを見て顔を明るくする。
「お久しぶりです。辺境伯夫人」
「そんなに畏まらないでください。色々とリリーさんにはお世話になりっぱなしですから」
「とんでもない。王都にいらっしゃったお時はいつも来てくださって、こちらこそありがとうございます。なかなか遠くなりますと……ね」
「私としては出張や旅行でもし立ち寄ることがあるとありがいのですけど、そんなわがままは言えませんから」
エミリーは控え目にそう言ったが、リリーは思いのほか、「そう言うのもわるくないかもしれませんね」と意外と肯定的だった。
「辺境伯で過ごされてどうですか?」
「とてもいい所。大分、向こうでの暮らしに慣れて来たもの。ただ、王都で懇意にしていたお店とは疎遠になってしまう。と言う意味では少し残念かしら。なかなか、王都までこういった用事がない限りは来れないですからね」
エミリーの話を聞きながら、リリーはそう言えばと話を切り出す。
「私のお姉さまもトンプソン伯爵と結婚しまして、お仕事柄、あまりアンバー王国にはほとんどいらっしゃられないのです」
「存じておりますわ。トンプソン伯爵は外交官ですものね」
エミリーはつらっとそう言った。結婚する前はまだあどけない部分の残る少女で、ドロシアの記憶では政治に関しては特に彼女が苦手としていることだったが、今はその頃の影も薄れている。
「ありがとうございます。姉のことを褒められるのはなんだかくすぐったいですね――えっと、それで、そんな姉のためにポリッシュと言うものを作ってみたのです」
「それは一体?」
「爪に簡単に色をつけることが出来ます。ジェルネイルとは違うので、長さを出したり、強度を出せるという訳ではないく、そんなに保ちもよくはないのですが、わりと簡単に誰でもできる代物です。ただ落とす時は専用の薬剤を用います。でも、これもそう難しくはありません」
「まあ、それでしたら……」
エミリーの表情がぱあっとみるみる内に明るくなる。
「まだ、試作品の段階ですので、もしかしたら不具合があるかもしれません。もし宜しければ、お試しと言う感じで、使用をお願いしてもいいでしょうか?」
「ええ、もちろん。むしろ嬉しいわ」
「辺境伯に帰られる前にリリーネイルにお立ち寄りください。いつ来ていただいても大丈夫なように、ご用意しておきますので」
他に二、三、たわいない話題を交わしたところで、エミリーは通りがかったご婦人たちに合流していった。辺境伯夫人が王都へ来ることはあまり多くない。だからこそ王都に来た時は彼女なりに顔を合わせなければならない、家名の方々がいらっしゃる訳で。もちろん、ドロシアもその位の事情は分かっているので特に引き留めることもなく、エミリーを送り出した。
残されたリリーと二人になって、パーティーの喧騒は遠のく。
「アダム・ルイスと言う人物について、私もある程度、調べてみたのです」
彼の名前が出て来た時、はじかれた様にドロシアは顔を上げた。しかし、その瞬間。
「奥様」
「え?」
聞きなれた声にそちらを向くと、執事のピーターが血相を変えてそこに立っている。
「すみません。早急にお伝えしたい用件がありまして」
ピーターは屋敷では見たこともないほど、取り乱している。いつもきれいに撫でつけた髪の毛はところどころ乱れ、バトラーの制服も心なしか皺が寄っている。そんな彼の様子から、パーティーにまで押しかけてドロシアにつたえなければならない何か重要な事項が発生したのだろうと察知する。例えば、クレイグ伯爵になにかあったのかもしれない。そう思われた。
「ごめんなさい。ちょっと私……」
ドロシアは席を立った後、リリーの方を見てそう断ったのだが、彼女からの返答を待つ余裕もなく、気持ちがせっていたので、歩き出すピーターの後に続いた。会場を横切る際、ドロシアは早足でピーターの後ろにぴったりとくっついて、
「一体何があったの?」
小声でそう聞いてみたのだが、ピーターが振り返ることはなかった。
つまり、ここでは言うことも出来ない様なよっぽど切羽詰まった状況なのだとドロシアは勝手に一人で理解して、緊張感が走る。
伯爵家の屋敷に戻るのだと、ばかり思っていたが、ピーターの足取りはエントランスの方には向かわず、エントランスとは反対方面の廊下を曲がり、そこに並ぶ一つの扉の前に立ち止まって、振り返る。
「部屋の中でパメラがお待ちしています。ドロシア様のご準備をお手伝いいたします。私は今、馬車を呼んで参りますからお部屋でお待ちください」
ドロシアは特に準備も何もないのだがと言う気持ちと、切羽詰まった形相で呼びに来た割には、馬車の用意はこれからするのかしら。と言う違和感を感じながらも、あまりにも急な事で、ピーターの考えがそこまでいたらなかったのかもしれない。そんなことについて文句を言っても、仕方がない。そう思ってこくりと頷いて部屋に入る。
本当に一体何があったのか――馬車に乗ってから聞けばいいと思い、走ってエントランスの方に向かうピーターを目で見送り、ドロシアは後ろの扉から部屋に入る。
中に入ってパタリと扉を閉めた。
いつもなら、パメラはその音ですぐにドロシアの存在に気が付いてこちらに来るのだが、その気配が全くない。むしろ、部屋の中に人の気配が全く感じられない。
「パメラ?」
部屋全体に聞こえくらいの声の大きさで、そう呼びかけてみたが、返事はない。
もしかしたら、紅茶とかお湯などをもらいにキッチンの方に行っているのかもしれない。そう思ってソファーにちょこんと座って待ってみたが、戻って来る気配もない。いよいよ何かがオカシイとそう思った。
パメラに何かあったのだろうか?
しかし、執事のピーターは間違いなくこの部屋で待つようにドロシアに伝えていた。
まんじりとただ、座っているのも、どうしようもないので、立ち上がり、部屋の中をうろうろとしてみる。
ふと、部屋の奥に立てかけられた、東洋風の絵が描かれたパーティションの向こう側をひょいと覗くと、
「パメラ?」
大きな声で、彼女の名前を呼んだ。パーティションの影になって気付かなかったが、パメラがそこに倒れていて、何度も何度も呼びかけてみたが反応がない。
パニックになったドロシアは部屋を飛び出し、ちょうどいた、人の後ろ姿に向かって声をかける。
「お願い助けて。我が家の使用人が倒れて動かないの」
ちょうど声をかけたのが、フォックス家の使用人だったようで、
「かしこまりました、その方はどちらに?」
凛とした声を響かせる、その女性は使用人と言うよりも、貴族淑女と言う言葉の方がぴったりと合う。
その彼女を引き連れて、ドロシアの案内で元居た部屋に戻ると、パメラを指した。
「見つけたら、倒れていて……呼びかけても、動かないの」
悲痛な声でそう訴える。
使用人はかがみこんで、パメラの首筋に手をやると、
「残念ながら亡くなっています」
立ち上がり、沈痛な面持ちでそう告げた。
「そんな……」
思ってもみなかった事実を突きつけられて、よろよろと後ずさる。
「奥様」
タイミングよく、ピーターが戻って来た。彼はドアを開けた先、飛び込んで来た光景に目を見張っていたが、すぐに冷静さを取り戻し、ドロシアに視線を合わせる。
ドロシアは彼がこの場に帰って来てくれたことを心強く思っていたが、その後に吐いた彼の言葉は思いもよらぬものだった。
「奥様、ついにやってしまわれたのです?」
今までの彼からは想像もつかなかった。見たこともない呆れ顔にゴミでも見る様な目つきでドロシアは見る。
「……」
声が出なかった。
何と言っていいかわからなかった。
心の中では違うと叫んでいるのに、上手く言葉を出すことが出来ない。
ピーターはつかつかと歩みより、フォックス家の使用人の隣に来ると屈みこんでパメラに手をあてる。
「即死ですね。鋭利な刃物で一突きしたのですか? いつも持ち歩いているあのペーパーナイフで」
ドロシアは気が動転していたので、そこまで気が付くことが出来なかったが、よく見ると、絨毯は赤黒く染まっており、確かにドロシアが所有しているペーパーナイフが向こうに転がっている。
しかし、ふるふると首を横に振った。いつも持ち歩いてるなんて、そんなことはしていない。いつも、自身の執務机に仕舞っている。執事は何を言っているのだろうか。
ピーターは立ち上がると、フォックス家の使用人に向かって、
「君、あとは我が家の問題であるから下がっていい。しかしここであったことは誰にも言わないでくれるかい? 我が家の奥様の威厳に関わることなのでね」
ピーターは有無を言わせない様な強い言い方をしていた。横で聞いていた、ドロシアも少し恐れを覚えるほどの言い方で、普通の使用人であればすぐに尻尾をまいて逃げるだろうという勢いなのに、その女性は凛とした空気を崩さなかった。ドロシアの表情を見て、何かを思ったのか、その後、ピーターに「かしこまりました」とだけ言って部屋を出て行った。
部屋の中にはピーターとドロシアの二人きりになる。
頭が大混乱していた。
一体なにがどうなっているのか。
「ピーター、これは一体?」
ピーターからの返事はない。ドロシアが一人もんもんとしている間にもピーターは、大きな布を用意すると、パメラの遺体処理を始めた。
その様子を見ていたら、妙に冷静な気持ちになる。一体、どうして、わかった様に大きな布などを持ってきているのか。
どうしてそんなに、手慣れているのか。
作業をしている張本人はドロシアの方など見向きもせずに黙々と作業を進めている。
ひと段落ついた(パメラを布に包んだ)ところで息を吐いて、立ち上がるとこちらに向きなおると、
「奥様、いくらお貴族様だからと言って仕えている使用人が例え平民出会ったとしても殺害するのはよくないと思います」
冷静な声は鋭利なナイフと同義である。
「私はなにも……」
「しらばっくれるおつもりですか?」
感情のこもらない声に強い口調。残忍に見下ろす視線に、心がえぐられる。
「私は本当になにも……」
「そこまでおっしゃるのでしたら」
ピータ―はそう言って、パメラの近くにもう一度かがみ込んだ。
「これはドロシア様。貴女の所有物ですね。ご丁寧にイニシャル入りのものです。流石にこれについては覚えがないなどと、言うことは出来ないでしょう?」
ピータ―が持ち上げたのは刃先にべったりと血が付いたペーパナイフ。
そのナイフは柄の部分にエメラルドとサファイアがついた、高価なものである。
実家のブラッドロー家にいるころから、ドロシアが使っているもので、幼い頃に父であるブラッドロー伯爵からプレゼントされたものだった。
使いやすく思い入れのある品物なので間違いない。しかし、なぜそれが今ここにあるのか。確かに昨日、使った。でも、そのあとドロシア自身の執務机の引き出しに戻した。しかし、ドロシアには弁解の余地は与えられず、ピーターは言葉を続ける。
「奥様には二つの選択肢があります。
一つ、侍女を殺害した殺人犯として名乗り出る
二つ、侍女に無体を働き追い出した。そのためクレイグ伯爵家には一名、行方のわからなくなった侍女がいると悪妻のレッテルを貼られながらも、屋敷で生きていくか。
どちらを選ばれますか?」
悪魔の微笑みを浮かべるにピーターに頭が真っ白になり、背筋は凍り付く。
”悪妻”と言う言葉を聞いた瞬間にストンと自分の中で腑に落ちる部分があった。――ああ、こうやってドロシアは悪妻になったのだと。自らなりたかった訳ではない。目の前のこの男の手によって……ドロシアはぐっと手を握りしめる。
「私が無体を? パメラに? 言いがかりもいい加減にしてちょうだい。仕事熱心な彼女にどうして、私がそんなことを?」
「奥様は知らなかったのですか?」
挑戦的なピーターの言い方に思わずむっとする。
「何を?」
「パメラは貴女が思っている程、素直で従順な侍女ではないということです。彼女は奥様の私物である宝石や高価なショールなどを見つからない様に盗み、売りさばいていたことはご存知ありませんか?」
「まさか」
ドロシアは言葉で否定しながらも、いつか見たパメラの不審な動きを思い出していた。
パメラはドロシアの私室の辺りで、見たこともない袋を持って、うろうろと不自然な動きを見せていた。彼女についてのドロシアの戸惑った気持ちを見抜いたのか、ピーターは良くない笑みを深める。
「奥様がどこまでご存知なのかは、わかりませんが、彼女の家族に病気で非常にお金のかかるものがありました。侍女の給金なんてたかが知れていますから。だから彼女はいつもそうやって主人に良い表情を見せて。裏でやることをやっていたという寸法です。前につとめていた針子の仕事でも色々とやっていたそうですよ。とある理由で、首になっています。理由は今の話の流れから、言わなくともわかりますよね? つまり、奥様がパメラを咎めるべき理由は確かにあったのです。ですが、殺害する程のことかどうか問われた場合、裁判でそれを聞いた民衆は一体判断すると思いますか?」
「そもそも、私はパメラの死に関して、殺害なんて知らないしやってもいない。この部屋に入ったのも、貴方がこの部屋で待っていてと言うから」
「ええ、そうです。私は馬車の用意をしてくるので、この控室で待っている様にお伝えしました。そうすると控室で待機していたパメラが奥様が愛用しているペーパナイフを持っていることに気がついた。前々から私物がなくなることを不審に思っていた奥様は、パメラを問いただすと、流石に逃げられないと判断したパメラは以前から盗みを働いていたことを素直に告白しました。ですが、彼女に激高した奥様はペーパナイフで、ついには殺害してしまたったのです」
「そんな」
ピーターの魂胆は何となく察せられた。弱味を握り、ドロシアを意のままに操りたいのだ。パメラの命を犠牲にしてまでも。イエスと言ってはいけないことをわかっている。なのに、追い詰められたドロシアは首を縦に振る事しか選択肢が残されていないように思われた。
「もしくは」
ピーターは更に残忍な笑みを浮かべる。
「今、ここで人を殺めてしまったことを悔いて自殺されますか? お手伝いいたしますよ」
にやにやと人を小馬鹿にするような言い方。
そのピーターを見て、ドロシアはああ、この人とは生きて来た世界が違うのだ。
彼の普通とドロシアの普通には大きな格差があること。悲しいかな。恐らく今のピーターにドロシアがどんな言葉をなげかけても、伝わることはない。貴族の権威をふるって言葉を命じることは出来る。しかし、そう言った所で一体何になる? ただ、ドロシアの足場が悪くなる一方ではないか。それを全てわかった上でピーターはこういった物の言い方をしているのだと。
「貴方はやっぱりエブラタル地区の――」
ピーターの顔が大きく変化した。
「ご存知でしたか」
”死神”
見たこともあったこともない空想世界の産物であるが、もし存在するとしたならば、きっとこんな顔をしているのだろうか。
どう答えるのが正解なのか。いや、答えた所で、ピーターはそもそも……
ドロシアはその結論に至る。
起死回生をはかる事の出来る選択肢は、今のドロシアにはない。権力も財力も交渉できるカードは何一つ。
そう思ったことで尚更、潔くその結論を受け入れられた。
ドロシア・クレイグは今日、ここで、自身の死を迎えるのだと。
全ての自分に降りかかる運命を受け入れ、目を閉じる。
そんな時に浮かんだのが、結婚式の時に見た、ラルフの横顔。
凛々しくて、威厳のある。
(旦那様、どうかこの先お元気で)




