56 黒い船
クラウディオ第二皇子を乗せた馬車は、帝都から南部連合国を目指して進んでいる。
南下するにつれ、空の青さが深くなり街道脇の植物も見慣れないものに変わっていた。もうすぐ国境に差し掛かる。
帝国の船で直接すぐ近くのサンルアンを目指さないのは帝国と連合国の話し合いの結果だ。
(私は帝国から逃げ出すのではなく、自分から目的を持って国境を越えるのだ)
国境を越えると数十名の連合国兵士が正装で並んでいた。
「クラウディオ、いよいよだな」
「はい、叔父上」
「ここは私が対応する。まだ顔を出さないように」
そう言ってエーレンフリートは馬車を降り、よく響く声で
「出迎えを感謝する。ここから先の案内を頼む」
と告げた。
連合国軍に守られて国境からさらに数日。ようやく首都イビトに到着した。
イビトには高い建物が立ち並んでいた。
クラウディオは事前に学習していたのでイビトの大都市の景色にも驚かなかった。帝国に比べて建物と建物の間隔がゆったりしているのと、街路樹に赤やピンクの花がぎっしり咲いているところがこの国らしかった。陽射しははっきりと帝都より強い。
庁舎に到着すると、真っ白な軍服に身を包んだセシリオが建物の前で出迎えてくれた。クラウディオとエーレンフリートが降り立つと、黒髪を後ろに撫でつけたセシリオは
「お待ちしておりました。クラウディオ殿下、エーレンフリート皇弟殿下」
と優しげに微笑みかけた。
「お久しぶりです閣下」
「この日を楽しみに待っておりました殿下」
セシリオの後ろには陸軍大臣、イグナシオ、ベルティーヌが立っている。クラウディオは順番に挨拶をして最後にベルティーヌに声をかけた。
「お久しぶりです、ベルティーヌ嬢」
「お久しぶりでございます、クラウディオ殿下。背がお高くなられて別人のようです」
「僕の見た目も変わったでしょうが、中身もだいぶ変わりました」
イグナシオに促されて六人は庁舎に入り、今後の計画の打ち合わせを始めた。
ジャムを添えられた熱いお茶を飲みながらベルティーヌはクラウディオ殿下を見ていた。殿下はもはや少年ではなかった。体格の良い凛とした雰囲気の青年だった。この時期の男の子はたった二年半でこんなに変わるものかと思う。声変わりし始めたらしいクラウディオ殿下は時々声を出しづらそうにしながらも積極的に会話に参加している。
打ち合わせの段階から参加したルカは(いよいよだ)と武者震いをしている。胸のポケットには父の形見のハンカチが入っている。
(父さん、見ていてくれ。必ず父さんの無念を晴らすよ)と時折そのハンカチに手を当てていた。
一人冷静なのはセシリオだった。
何度も確認した計画に穴は無い。それぞれが受け持った役割を慌てずにこなせば計画は成功する。だが人間が行うことに絶対が無いことも承知している。突発的な事態に備えることが自分の役目だ、と残り五人の顔を見ながらセシリオは冷えた頭で考えていた。
サンルアン王国の王宮では、高い塔の上で当直の見張り番が目を疑うような物を見つけた。太陽が顔を出す前の、わずかに明るくなった空の下、真っ黒な大型帆船が二隻も沖合に浮かんでいたのだ。船の形は連合国の軍船だった。
「なんだ?」
連合国からの船が来ることは聞いていない。どういうことかと遠眼鏡でもう一度船を見てまたしても驚く。真っ黒な連合国の船の船首には船首旗が二枚。帝国の『剣を掲げるグリフォン』と連合国の『獅子と鷲』が掲げられている。
「船首旗が二枚?」
弾かれたように椅子から立ち上がり、見張り番は階段を猛烈な勢いで駆け下りた。帝国の国旗が掲げられている以上、緊急事態を伝える早鐘を打つわけにはいかないが、異常事態であることは間違いない。
夜明けの時刻なのに駆け下りた先に宰相が立っていた。
見張り番は取り乱していたからその不自然さに頭が回らない。むしろこの国で一番頼りになる人がいたことに安堵した。
「どうした、そんなに慌てて」
「宰相様、沖に連合国の軍船が二隻も来ております!」
「旗は間違いなく連合国だったのだな?」
「はい、いえ、旗は二枚、帝国と連合国でした」
「そうか。帝国の旗が掲げられているのでは粗略な応対はできない。持ち場に戻りなさい」
「え?でも」
「大丈夫だ。責任は全て私が取る」
「はっ。かしこまりました」
宰相様がそうおっしゃるのなら何の問題もない。この国は宰相様が動かしているも同然なのだから。そう考えて見張り番は塔の上に戻った。そして遠眼鏡でまた様子を見る。
「なっ!」
こちらの水先案内人の船はまだ出ていないのに、連合国の軍船から小型の船が続々と海面に降ろされ、サンルアンの港を目指して一列に並んで進んで来る。
「座礁するじゃないか!」
この島を取り囲む暗礁の位置は複雑で、他国の人間が避けきれるものではない。宰相様にまた連絡をしなければ、と思っていたところで先頭の小船の動きに気がついた。
「あれ?暗礁をちゃんと避けられてるのか?」
それだけではなかった。先頭の小船の後ろにぴったりと付いて進む船から、進路に次々何かが投下されていた。
「あれは!」
材木を輪切りにして真っ白にペンキを塗られた浮きだった。白い浮きは、暗礁を避けながら進むルートを明確に示していた。浮きを投下していた小船は、浮きを全部投下し終えると更にその後ろに続いている船に場所を譲る。新たに浮きを山積みした船が二艘目の位置に付き、また重い鎖と石に繋がれた浮きを投下しながら先頭の船に続く。
「航路がダダ漏れになるじゃないか!」
サンルアン王国にとって針の穴を通すがごとき複雑な航路こそが防御壁だ。それをあんなふうに丸見えにすることはとんでもない犯罪だ。この国には軍隊が無い。攻め込まれることは終わりを意味するのだ。
「宰相様!宰相様!大変です!航路が!」
階段を駆け下りる途中で見張り番は見慣れぬ屈強な男たちに行く手を阻まれ、あっという間に縛り上げられ声を出せないように口も塞がれて、階段脇の物入れに押し込められた。
物音を立てないように厳重に縛り上げられた男は何が起きているのか理解できなかった。
「旦那様、終わりました」
「ご苦労。お前たちはしばらく隠れていなさい」
「はっ」
私兵に指示を出し、宰相マクシム・ド・ジュアン侯爵はゆったりと出迎えのために謁見室へと向かう。通り過ぎる侍女に
「陛下を起こしてくれるかい?帝国から大切なお客様がご到着なんだ」
と告げると、侍女は慌てて国王一家の居住区域へと早足で消えていった。
海岸近くではサンルアンの住民たちが家から出て海を眺めている。
「どういうことだ?」
「先頭の船には帝国の旗が掲げられているが、水先案内人が乗ってるってことか?」
「おいおい、航路に浮きを並べてるぞ。こりゃ処刑されるな」
「帝国の人を処刑なんてできるものか。苦情を言って終わりだろう?」
「それにしてもうちの水先案内人が一人も出て来ないのはどうしてだ?」
見物人は次第に増え、朝日が昇り切ったころには千人以上の民衆が続々とやって来る小船の列を眺めていた。
「おい!乗ってるのは帝国の軍人じゃないぞ!」
「あれは連合国の人間じゃないか?」
それを聞いて民衆は一斉に家を目指して走り出した。帝国の旗を掲げて連合国が侵略に来た、と勘違いしたのだ。
サンルアンに向かう船の列の先頭で、ルカは何度も連合国の海で練習した通りに指示を出していた。
「九、十、十一、十二、十時の方向へ!一、二、三、四、五、十二時の方向へ!」
ルカは子供の頃、父にくっついて船に乗るのが大好きだった。父に付いて数えきれないほど船に乗った。時には帝国側に上陸せず、そのまま船で戻ることも多かった。
ある時期からは船の複雑な航路を覚えたくなり、数を数えながら乗っていた。記録を取ることは厳しく禁止されていたから遊びのつもりで数を覚えた。
そのうち舵を切るタイミングを覚えてしまい(次は二時の方向。三、四、五、次は十二時の方向)と予測して当てるのが楽しかった。やがて身体が舵を切るタイミングを覚えてしまって、百発百中で船の向きを変えるべき時と方向を当てられた。
ベルティーヌと婚約するはずだった頃、何度かそれを自慢したように思う。だがまさか他愛ないおしゃべりを彼女が覚えているとは思わなかったし、こうして王家を廃する仲間に入れるとも思っていなかった。
話が決まった後で、何度も何度も連合国の船で航路を示す練習を繰り返した。船の速さを細かく指示して、連合国の船は今ではサンルアンの船と同じ速さで進むようになっていた。
(父さん、やっと父さんの無念を晴らせるよ。見てるかい?)
父親とのたくさんの思い出が心に浮かんでくる。油断すると男泣きしてしまいそうだった。湧き上がる感情を抑えて、ルカは船の進路を細かく指示し続けた。





