50 川船カリナ号の初航行
サンルアン王国の公共施設と設備の担当者はこのところ微妙な違和感を感じている。
国庫からの出金に普段は厳しい宰相がなぜか普段よりやや多く「許可」を出してくれるからだ。
もちろんどれも必要な出費で、荒れた石畳の修復、貴重な真水を泉から引く水路の改修工事、教会の礼拝堂の修繕、国保有の老朽化した船の買い替えなど全ては観光立国である以上、いつかはやらねばならないことばかり。
だから不思議ではないのだが、ここまで気前良くというか緩く許可が出たことは初めてのような気がする。
「でもこれをやらずにいて何かあったら自分の責任になる」
そう考えて承認された予算で改修やら買い替えやらを部下に指示した。
水路管理係も、港湾整備係も、食料備蓄係も、少しずつ時期がずれてはいたが「今年の宰相様は出費に大らかなんだな」と感じた。だが元はと言えば自分が上に出した要望だったのでありがたく予算を使い切った。全体を把握しているのが財務大臣と宰相だけだったから出金全体の変化に気づいた下級文官はいなかった。財務大臣と上級文官たちは既に宰相の話に賛同していた。
結果、『国庫の余裕が全く無いわけではないが少なめ』になり、残っている賠償金の支払いはまた見送られた。連合国からの催促が一度も来ないこともそれを後押ししていた。
「連合国は帝国から賠償金を全額貰っているから気が大きくなっているのでは?」という宰相の意見が王妃をやんわりと油断させていた。
その頃、ベルティーヌが注文した川船はチュイの作業場で完成した。
「お嬢さん、あとは塗装作業さえ終われば俺の仕事は終わりだよ」
「予定よりずいぶん早く仕上げてくれたのね。ありがとう、チュイさん。じゃあ、あとは壁紙を貼って家具や消耗品を入れれば終わりね。天使像も色を塗ったのね。美しいわ!」
「お嬢さんのおかげでいい仕事ができたよ」
「ありがとう、チュイさん」
船員は募集済みだ。あとは貴族向けの接客係の教育だが、それはベルティーヌが担当する。
一週間の接客の教育を終えて、自分が客となって実際に最深部まで向かうことになった。ホテルの建築はどこまで進んでいるのかと楽しみでたまらない。ドロテが船腹に書かれた船の名前を見て優しい顔になった。
「お嬢様、きれいな船でございますね。奥様のお名前を付けたのですね」
「お母様を偲んで名付けたわ。真っ白で本当にきれいよね、この船」
「きれいですしいい名前です」
初航行の日、チュイさんの仕事場から水路を経てカリナ号はサラン川に入った。
乗客はベルティーヌ、ドロテ、ディエゴ、そしてセシリオとイグナシオの五人だ。セシリオとイグナシオは最深部から幹線道路の敷設の要求があり、状況確認のために現地に向かうのだ。
今回はヒリの売り上げについて報告をしているときにそれを聞いたベルティーヌが二人を誘った形だ。
「川船の建造の際は国の補助金を出していただいたのですから、ご迷惑でなければ閣下とイグナシオさんも一緒に船で向かいませんか?」
「それはぜひお願いしたいな。俺もどんな船なのか見たかったんだ」
「私もいいんですか!船、大好きなんですよ!」
いつも冷静なイグナシオの声が少し高い。
出発の日、イグナシオはずいぶん早く来てあちこち見て回っていたそうだ。
貴族や大商人を想定した室内は床板にも贅沢な材料を使い、蜜蝋で磨き上げられている。壁には作り付けのランプがたくさん並んでいる。
「うわあ、贅沢ですね。こんな川船、夢のようですよベルティーヌ嬢!」
「イグナシオ、お前は昔から船が大好きだもんな」
「ええ!船はいいですよ。夢があります!」
船内をあちこち見て回り、いちいち感動の言葉を漏らすイグナシオが少年のようだ。
「夕食は美味しいものが出ますけど、その前に少しお酒はいかがですか?」
「いただこう」
「閣下、こんな夢のように楽しい仕事でいいんでしょうか」
くつろいだ様子のセシリオ閣下とはしゃいでいるイグナシオをベルティーヌがニコニコ眺める。バーカウンターには若い男性。接客の乗務員は全員イビトで募集して集まった人たちだ。船を動かす船員は今まで普通の川船を動かしていた人たちが応募してくれた。彼らも紺色の制服姿で心なしか動きのキレがいい。
するりと桟橋から離れてサラン川の中央に滑り出したカリナ号は、大河の流れに馴染んでゆっくり進む。二本のマストに張られているロープには真っ白な三角の帆が取り付けられているが、川を下る今は帆が畳まれていて、ロープには小型の鳥が数羽止まって羽を休めている。
「船は馬車のようにうるさい音がしないのがいいよなぁ、イグナシオ」
「聞こえるのは船の腹を叩く川の水音だけですね、閣下」
男二人が仲良く甲板に並び立って川面を見ている姿が微笑ましい。
「お酒が用意できましたよ」
「おっ」
「では早速いただきます」
今までのほんわかした様子が嘘のように素早い身のこなしで二人が船室に入ってきた。
出されたのは蒸留酒を星の実の酒で割った強いものだった。
「美味そうだ」
「いただきます」
二人はゴクゴクと一気に飲み干してバーテンダーにお代わりを要求している。
「イグナシオさんは閣下の同郷なんですよね?」
「はい。とは言っても正確にはカリスト地区ではないんです。その隣です。閣下は十五歳の時には近隣で知らない者がいないくらい有名でしたよ」
「イグナシオやめとけ」
「あら。ぜひうかがいたいわ。どんな十五歳でしたの?」
イグナシオを睨むセシリオ。クスクス笑うイグナシオ。俄然興味が湧くベルティーヌ。
「閣下はこの見た目ですからね。下は十二、三歳、上は二十七、八歳くらいまでの女性がカリスト地区の祭りにかこつけて閣下を見に押し寄せていましたよ。私たちもてない野郎どもは全員で閣下の悪口を言いまくってました」
眼鏡をかけていつも無表情なイグナシオの口からそんな言葉が出たので、ベルティーヌは「ぷっ」と吹き出してしまう。ちなみにイグナシオもなかなかの男前ではある。セシリオが黒髪のライオンのような野生味のある整った顔で、眼鏡をかけたイグナシオは理知的な感じの美形だ。
「一人強烈な女性がいましてね」
「イグナシオ、俺はその話題は悪い夢を見るんだよ」
「あら、ぜひその先を聞かせてくださいな」
「とある女性が閣下の家に毎日押しかけて結婚してくれって通ったそうです……クックックッ」
「あれは悪夢だった。最後の頃には父がほだされてしまって『この子でいいじゃないか』って言い出した時には本当に慌てたな」
「どんな感じの女性だったんです?」
「ビアンカを覚えていますか?彼女にそっくりです。もっとも閣下が『あと二十年は結婚しない、無理だ』と断ったらさっさと他の男と結婚したそうですよ」
なかなか聞かない話にベルティーヌが感心している間にも、男性二人は酒をまたお代わりしている。三人の後ろの丸テーブルには白いテーブルクロスがかけられ、グラスに生けられた花が置かれ、カトラリーも並べられた。
手際よくどんどん料理が並べられる。
「さあ、いただきましょう」
ベルティーヌのかけ声で三人が席に着き、簡単な乾杯をして食べ始めた。今夜のメインは皮つき豚の塊肉を匂い消しの香草を何種類も入れたお湯で茹でたもの。薄く切って皿に扇形に並べられた豚肉を好みのソースに浸して食べるのだが、レモン汁と黒ヒリ、粗塩、蜂蜜を混ぜたソースがとても美味しい。ゼラチン質の皮も甘みのある脂身も汁気の多い赤みの部分も柔らかく口の中でほぐれていく。
「レモンとヒリは相性がいいですね!蜂蜜が入ってるのが絶妙に後を引きます」
「美味い。延々と食べてしまうな」
「こちらのハーブ塩もおいしいですよ」
粗く粉にした白ヒリとすりおろしたニンニクと刻んだパセリとオリーブオイルのソースも肉の味を引き立てて美味しい。合間に焼きたてのパンを食べているとこれだけで満腹しそうになる。
食べながら「なぜ熱烈な女性を断ったのか」とベルティーヌが尋ねると、困った顔をしているセシリオの代わりに少し酔ったイグナシオが答えてくれた。
「閣下は貼り付くような雰囲気の女性が好きではないんですよ。閣下はべ……」
「べ」だけを言ったところでセシリオの「いい加減にしろよ」と言わんばかりの視線に気がついてイグナシオは慌てて肉に目を落とし、すまし顔で肉を口に入れた。
「俺はベタベタしてる女性は苦手なんだよ」
「そうなんですか」
のんびり食事をした後は浴室を使い、ベルティーヌとドロテは二階のベッド、男性三人は一階のハンモックで眠ることになった。夜更け、ディエゴとは離れたハンモックにもぐりこんだ二人はこの先の任務のことを話していたが、イグナシオが少し声の調子を変えて話しかける。
「閣下。国のため国民のために働き続ける生き様も素晴らしいですが、ご自身の幸せも手に入れてくださいよ」
「ああ」
「女性にとっての一年と男性にとっての一年は長さが違うと言いますよ」
「あの件がかたづくまでは無理なんだよ」
「あー……。そうですか。それにしてもサンルアンの王家は愚かですよね」
「あの国の王妃は途中から見失ったんだよ、きっと」
「何をですか?」
「いろんなものだ。最初から今のように強欲だったわけじゃないと思うんだ。だんだんに己の人生の課題が見えなくなったんだろう。そして最後は唯一追いかけた富も失うわけだ。皮肉だな」
「ですねぇ」
二人が口を閉じ、目も閉じて眠りに就いた。船腹を叩く川の水の音だけが聞こえてくる静かな夜の航行だった。
クラウディオ殿下の十五歳の誕生日まであと一年八ヶ月である。





