第4話 オーストラリアからの留学生
二年生となり、陽は進学クラスへと上がりました。就職クラスの美里ちゃんとは、別々のクラスです。
二年生になっても、陽はホームルーム委員のままです。担任の先生が一年の時と同じだったこともあり、そのまま継続となったのでした。
「ハッチ、また同じクラスだね」
隣の席にはほのかちゃんがいました。
「ほのちゃん、またよろしくね」
ほのかちゃんの家が陽の家と同じ方向だったこともあり、一緒に帰るうちに、二人はいつの間にか親友同士になっていたのです。また、一年生の時には美里ちゃんといることも多かったので、ほのかちゃんも陽のことを「ハッチ」と呼ぶようになりました。
「あ、お母さん」
「母さんも一緒のクラスなんだね」
りんちゃんと博美ちゃんが教室に入って来ました。
「あ、娘たち。おはよう」
陽は冗談めかして言います。クラスが変わって、知らない顔もたくさん増えましたが、その中で知っている人を見かけるとどこかほっとするものです。
けれども、それだけでなく、陽の心は本当に軽やかになっていました。その理由を陽は知っています。
『……明るいクラスみたいで、よかった……』
一年生の時、クラスには暗い雰囲気が漂っていました。
……黒い靄が、クラスを取り巻いていました。
他の人には見えていないのでしょうが、美里ちゃんを中心に、いつもどんよりとした影に覆われているかのようだったのです。
『望遠鏡をのぞき過ぎたのかな……』
陽は、高校に入るとすぐに、靄を視認できるようになりました。その最初の人物が、美里ちゃんです。
『前までは、望遠鏡をのぞかないと見えなかったのに……』
黒い靄が見えるというのは、あまり気分の良いものではありません。以前ならば、見たくない時には望遠鏡をのぞかなければ良かったのです。しかし、常日頃見えるようになってしまい、それがいつも一緒にいる人に見えるというのは、精神的にも体力的にもかなり疲弊するものなのでした。
『サット、どうしているかな……』
思った瞬間、左側頭部にずきりとした痛みが走りました。
「ハッチ、どうしたの?」
突然頭を押さえた陽を不思議に思ったのか、ほのかちゃんが小首を傾げて尋ねます。
「……ううん、何でもない」
にこりと笑うと、陽はそう答えました。
二学期が始まってすぐ、陽のクラスに留学生がやってきました。
彼女の名前はエイミー。陽よりもひとつ年上です。オーストラリアからの留学生でした。
「一ノ瀬、面倒を見てやるんだぞ」
担任の先生は、去年ほのかちゃんが転入してきた時と同じように、留学生に陽のことを紹介した上で陽にそう告げました。
「あ、えっと、マイネーム・イズ・ハル・イチノセ。……ナイス・トゥ・ミーチュー」
ぎこちない英語で挨拶をすると、エイミーはにこりと笑ったあと、
「ワタシハ、エイミー・グレース・テイラー、デス。ヨロシクオネガイシマス」
と、こちらもぎこちない日本語で返してきました。
「エイミー、日本語話せるの?」
「ハイ!」
英語が苦手な陽が留学生のお世話をするなど不安でしたが、幸いなことに、エイミーは日本語を大体理解できるようです。話すことはまだ少し苦手なようですが、それでもちゃんと伝わります。
休み時間になり、エイミーの周りにはクラスメイトたちが押し寄せて来ました。
「エイミー、日本語上手だね」
クラスメイトの言葉に、
「ワタシハ、ニホンガスキ。ニホンゴ、オボエマシタ」
エイミーはそう答えます。
「日本のどういうところが好きなの?」
誰かが尋ねます。
「フンイキ……ア、ブンカ、ガスキ」
「文化?」
「ブンガク、モスキ」
「文学? 日本の本を読むの?」
「たとえば? 何の本が好きなの?」
また他のクラスメイトの質問に、
「ゲンジ」
と答えたのを聞いて、みんなはぽかんとした表情で互いに顔を見合わせています。
「……もしかして」
ふと閃いたらしい陽が口を開きました。
「源氏物語のこと?」
すると、エイミーは大きく首を振って、
「ソウデス!」
と微笑みました。
「え? 源氏物語って、平安時代の? 古典の教科書に載っている……」
「作者、誰だっけ?」
「紫式部だよ」
「それって、海外でも読まれているの?」
「エイミーが読むんだから、英語だよね?」
俄かに騒然とするクラスメイトたちの間で、エイミーはにこやかにうなずいています。
「オーストラリアデモ、ユウメイデス」
「源氏物語って、長いし疲れない?」
「ジカン、カカリマシタ。デモ、オモシロカッタデス」
「おもしろかったの?」
「ニホン、モットカタイ、オモッテマシタ。ムカシハ、アンナニ、ジユウナレンアイ、シテイタンデスネ」
「いや、してないと思うよ」
誰かの言ったことに、みんながどっと笑いました。エイミーだけが取り残されたように、きょとんとしてみんなを見回しています。
「あれは、あくまで物語だよ。光源氏みたいな人はいなかったと思うよ」
「実際にいたら、いろいろと大変そうだよね」
「ソウゾウ、ワカッテマス」
エイミーが続けます。
「ソウゾウダトシテモ、ソウイウセカイ、ツクレルヒトガイタ。ニホンニ、センネンモマエニ、ソウイウヒト、イタ。スゴイデス」
「そっか。エイミーは源氏物語が好きなんだね」
陽が笑いかけると、エイミーもにこりと笑い返しました。
「それなら、良かったね。もうすぐ古典の授業で源氏物語をやるはずだよ」
「ジュギョウデ?」
「うん」
エイミーは手を叩いて喜びました。
「あ、でもね。古典は昔の言葉だから、結構難しいと思うよ」
「エ、アリマスカ」
「え……あ、絵? うん、教科書に載っていたと思うけれど」
「ソレ、ミテイルダケデ、イイデス」
「エイミーは日本の絵も好きなの?」
「ニホンノレキシ、スキデス」
「あ、歴史も好きなんだね」
「ハイ。ゲンジモノガタリ、エモキレイデス」
「確かに、綺麗だよね。源氏物語の絵は私も好きだよ」
そう話すうちに休み時間終了のチャイムが鳴り、集まっていたクラスメイトたちは散り散りに自分の席へと戻って行きました。
エイミーの席は、陽の席の前です。
「ハル」
エイミーが振り返り、陽に紙切れを渡してきました。開くと、そこにはひと言、「よろしくね」という拙い文字が書かれていたのです。そこで、陽もメモ帳を取り出すと、「こちらこそ」と書いて、メモ紙を小さく折りたたんでエイミーの席まで投げてあげました。
こうして、陽とエイミーは仲良くなったのです。
「エイミー、次は移動教室だよ」
「イドウ……?」
「別の教室で授業を受けるの」
陽が声をかけると、エイミーは慌てて教科書を片付け始めました。
「あ……」
ぱさっと床に落ちた物を拾い上げ、エイミーに渡します。
「アリガトウ」
「うん。これ、オーストラリアで有名なの?」
陽が拾ったのはクリアファイルです。男女六人がプリントされています。
「アメリカ、デス」
「アメリカ? フレンズって書いてあるけど、何かのグループ?」
「フレンズ、デスヨ?」
「……えっと、有名なの?」
「ニホンデハ、ヤッテナイデスカ? テレビデス」
「テレビ? もしかして、ドラマ?」
「ソウ! ダイスキデス」
「へえ、エイミーはフレンズってドラマが好きなんだね」
「ハイ! カレガスキ」
そう言って指差したのは、一番の長身でさわやかな印象の男性でした。
「かっこいいね」
「ニンキ、アリマス」
「人気があるの?」
「ハイ、オンナノヒトニ」
「あ、女の人に人気があるんだね。確かに、かっこいいものね」
好きな俳優を褒められたからなのか、エイミーはにこにこと嬉しそうに笑いながら、陽と一緒に教室を出て行きました。
その日、学校からの帰り道、陽はレンタルショップへと向かいます。目当ては、もちろん「フレンズ」です。
「……あった」
洋画のコーナーにそれはありました。
「うわ……こんなにあるの?」
思わずため息がもれます。
それは、もう十年以上も前から続いているドラマのようで、シリーズ化されていました。「フレンズ」だけでひとつのコーナーが出来上がっているほどだったのです。
「……本当に人気があるんだね」
つぶやきながら、一番上の棚の左端から三本抜き取ると、それをレジカウンターに持って行ったのでした。
「フレンズ、観たよ」
エイミーにそう報告をしたのは、一週間後のことでした。
「ホントウ?」
エイミーは、驚きに目を見開いています。
「最初のシーズンは全部観たよ」
「ウソ!」
「本当だよ」
「ナガイ、デショウ?」
「うん、長かったね。学校から帰って、毎日観ていたよ」
エイミーは両手で口元を覆い、感動を表現するようにその手を上にあげてガッツポーズをしました。
「ドウ、デシタ?」
「うん、そうだね……。なんか、日本ではあまり観ないような、そんな感じだったかな」
陽がそう言うと、エイミーが眉根を寄せて首を傾げました。
「あ……外国のドラマって観たことがなくて、みんなあんな感じなのかなって」
「アンナ、カンジ……? イミガ、ワカラナイ」
「笑い声とか入っているんだね。なんか、うしろの方で」
「ソレハ、コメディダカラ」
「そっか」
「ハル」
「え……」
顔を上げると、いつもの笑い顔を引っ込めたエイミーが、真面目な表情でこちらを見ています。
「ワタシ、ニホン、スキ」
「う、うん」
「デモ、ニホンジン、ハッキリイワナイ。キライ」
「……」
「オモシロイ? オモシロクナカッタ? ドッチ?」
「……ごめん」
「ハル、ワタシ、ワカラナイ。ゴメン、ナニ? イミ、ワカラナイ」
「エイミー、おもしろかったよ」
「オモシロイ? ホントウ?」
「うん、おもしろかった。でも、私には意味がわからないところもあった」
「イミ、ワカラナイ? ナニガ?」
「笑い声。たぶん、ここで笑わそうとしているんだとは思うけれど、何がおもしろいのかわからないところもあったよ」
好きなドラマをこんなふうに言われたら、けなされたと思うかもしれない……そう思いながら恐る恐る口にしたのですが、その瞬間、エイミーの眉間に寄っていた皺が綺麗になくなりました。
「ホントウニ?」
そう尋ねるエイミーは、いつもの明るい表情に戻っています。
「……うん。時々ね」
「ソウ、デスカ」
「文化の違いなのかな」
「ソウカモ、ネ」
「あとね、男の人なのに、周りから男の人が好きって思われている人がいたでしょ?」
「ハイ! ワタシ、ソノヒト、スキデス」
「うん。エイミーが一番好きって言っていた人だよね。周りから、男の人が好きって思われていたけれど、あれがよくわからなかったの。日本なら、男の人を見て、あの人は男の人が好きなんだろうなんて思わないよ」
「オー……」
エイミーは両肩を上げるしぐさをしました。なぜかはわかりませんが、少し呆れているようです。
「ソコ、オクレテイマス」
「え……遅れている? 何が?」
「ニホン、オクレテイマス」
「……どういうこと?」
「オトコダカラ、オンナ、スキニナル、ソウデナイ」
「えっと……」
「オトコ、オトコスキ。オンナ、オンナスキ。ソレ、ワルクナイ」
「……男の人でも男の人と恋愛していいって、そういうこと?」
エイミーはこくりとうなずきました。
「オーストラリアでは、主流な考えなの?」
「セカイテキニ、ソウナッテイキマス」
「……そう、かな」
「ニホンハ、モット……グローバル、ナラナイトイケナイ、デス」
「……グローバル、ね」
「ハイ!」
そう話しながらにこにこと笑うエイミーを前に、陽は少し考え込んでしまいました。




