第6話 何のために
次の日の昼休み、ある事件が起きました。
それは、本当に唐突でした。突然、教室の引き戸が開けられたと思うやいなや、
「由梨!」
怒声にも近い大きな声が教室中に轟いたのです。賑わっていた教室は一瞬にして静かになりました。
「あなた、何という格好をしているの? そんなだらしない髪形をして!」
肩ほどまでの黒髪をうしろできっちりとひとつに結わえた黒いスーツ姿の女性が、ずかずかと教室に入ってくるなり、
「眼鏡はどうしたの? 唇が赤いわね。まさか、紅でも引いているんじゃないでしょうね。見た目なんか気にして、こんな浮ついた髪形にして、この恥知らず!」
と喚きながら、由梨ちゃんの長い髪を鷲づかみに引っ張ったのです。由梨ちゃんから苦痛の声が漏れます。
女性のあまりの剣幕に、その場の誰もが動けずにいました。たとえそこに先生がいたとしても、それは同じだったかもしれません。けれども、その状況の中、ただ一人だけ勇敢に立ち向かう者がありました。
「何やってんだ、あんた!」
みんなの視線が、一斉にそちらへと向きます。
「由梨を放せ!」
声を上げたのは、ひかるちゃんでした。
「何なの、あなた」
ひかるちゃんの登場に少しは冷静さを取り戻したらしい女性が尋ねます。けれども、その手は由梨ちゃんの髪をつかんだままです。由梨ちゃんは、引きずられるようにして、床に転がされていました。
「私は、由梨の友達だよ! あんたこそ、何なんだ」
「私は、由梨の母親よ」
「母親? あんたが……」
「先程から、目上の人に対する口の利き方がなっていないようね。どんな目的でこの子に近づいたかは知らないけれど、この子に友達なんか要らないの。今後二度と、この子を変な道に誘わないでもらえるかしら」
「なんだよ、それ……。友達なんかいらないって、何であんたがそんなことを決めるんだよ!」
「今のこの子に必要なのは勉強だけ。本当は私立に入れるはずだったのに、あまりにも不出来だったためにこんな公立の学校に通わせるしかなかったの。でも、こんな学校でも、一番の成績を取り続けてさえいればまだ道はあると思っていたわ。それが、この受験の年の大事な時期に! 順位を五位も落としたのよ!」
「……」
「それがなぜなのか、今わかったわ。あなたと付き合うようになってからでしょう?」
「確かに、由梨の髪形は私がいじったしさ、コンタクトレンズだって私があげたけど……」
「コンタクトレンズですって? あなた、この子の目に傷でもついたらどうしてくれるのよ!」
「そんな、大げさだよ」
「何かあってからでは遅いのよ! あなたに責任がとれるの? 無責任なことをしないでちょうだい! いいこと? もう二度と娘には関わらないで!」
そう言うと由梨ちゃんの手をつかんで立たせ、嫌がる由梨ちゃんを再び引きずるようにして、そのまま校舎を出て行ってしまったのでした。
「今日ね、由梨ちゃんのお母さんが学校に来たの」
夕食の時間、陽はお母さんにそう話しました。
「それでね、由梨ちゃん……途中で帰らされちゃった」
「由梨ちゃんって、本条さんのところの? あそこのお母さんは教育に厳しくて有名だものね」
「うん。でも、なんか、厳しすぎるんじゃないかな」
「まあ、本条さんには本条さんなりに方針があるのでしょうね。親が子に厳しくするのは、より良くなって欲しいと思うからなのよ」
「……そう、なのかなあ」
「もちろん、そうよ」
「……お母さんは、私には友達なんかできなくていいって思う?」
「え? そんなこと思わないわよ。どうして?」
「由梨ちゃんのお母さんがね、由梨ちゃんには友達なんか要らないって言ったの」
「……そう。それは、由梨ちゃんのお母さんが勘違いしているのかもしれないわね」
「……勘違い?」
「由梨ちゃんの家はお父さんもお母さんもお医者さんでね、お姉さんも医大生なんですって。私立の良い中学校に入れてあげたかったそうなんだけれど、受験に失敗しちゃってね。それで公立の中学校に入れざるを得なかったらしいの。高校はなんとかいいところに入れて、路線を戻そうとしているんじゃないかしら。そのためにも今は勉強が一番。友達付き合いは二の次と考えているのよ。友達は、いい高校に受かってから作ればいいと思っているのかもしれないわね」
「そんな……。それじゃあ、それまで友達ができないままなの? かわいそう……」
「そうね。だから、勘違いをしているのだと思うわ。友達を作るっていうのもね、なかなか難しいものなのよ。勉強と同じか……もしかしたら、それ以上にね。そして、そのための練習の場が義務教育の時期だと思うの。大人に近づけば近づくほど、それは困難になるから。だから、高校に入ってから初めて友達を作るとなると、きっとたいへんでしょうね」
お母さんの言葉を聞いて、陽はなんとかしてあげたいと思いました。
『せっかく、友達ができたのに……』
陽は思います。今、由梨ちゃんに友達がいなかったなら、自分にできることはないのだと諦めもついたかもしれない、と。けれども、由梨ちゃんにはひかるちゃんという友達がいます。出会って間もない二人ですが、彼女たちは親友と呼んでも良いほど、傍から見ていても本当に仲の良い二人なのです。
夕食を終えると、陽は二階の自室へと行き、窓辺へと向かいました。カーテンを開けて、いつものように望遠鏡を取り出します。望遠鏡は、白い光とともに、陽の胸の辺りから伸びてきました。
『由梨ちゃん……』
由梨ちゃんのことを思ってのぞいた先には、自室にこもる由梨ちゃんと、リビングにいるお母さんが見えました。
お母さんは、ずっと何かを凝視しています。
『……テレビ、かな?』
それは、広いリビングには似つかわしくない、小さな液晶画面でした。
「あ……」
陽は、思わず声をあげます。由梨ちゃんのお母さんが見ていたものが、実はテレビではないことに気がついたからです。
その小さな液晶画面の向こうには……自室で机に向かっている由梨ちゃんのうしろ姿が映し出されていました。
『これ……カメラだ……』
陽は息を呑みました。由梨ちゃんは、部屋にカメラを取り付けられ、始終お母さんにその行動を監視されていたのです。
『どうして、そこまでするの……?』
一方の由梨ちゃんは、カメラに背を向けるようにして机に向かっていますが、勉強ができる状況ではないのでしょう。カメラでは捉え切れない部分まで、陽にはすべてが見えていました。
由梨ちゃんは、机に向かい、鉛筆を握り締めながら、泣いていました。声も上げず、肩を震わせることもなく、ただ静かに涙を流していたのです。その涙が、頬を伝い、広げたノートに染みを作っていきました。
陽の小さな胸は、熱い思いに満たされます。そして、その思いが滴となり、陽の頬をも濡らしたのです。
もう夜の七時を回っていました。夏の日は長く、まだ辺りは明るさを保っています。
陽は、由梨ちゃんの家を目指していました。あんなものを見てしまったので、とても放っておけないような気になったからです。
陽は由梨ちゃんの家を知りません。けれども、それについては何の心配もないのです。なぜなら、望遠鏡がすべてを知っているからです。
かつて、片翼の紳士が「君は知る必要がある」と言いました。そして、陽に望遠鏡を手渡したのです。ですから、この望遠鏡は知識の宝庫です。望遠鏡に知り得ないことなど何もありはしないのです。
曲がり角に来るたびに望遠鏡をのぞき、そうして辿り着いたのは、大きな家でした。
全体的に病院を思わせるような白い壁で、敷地の中に大きな家が二軒入っています。車が三台は入りそうなほどのシャッターつきの車庫もありました。
「……すごい。大きいなあ」
つぶやきながら門に向かう途中、
「おい」
と呼び止められ、陽は大袈裟なほどに肩を跳ね上げます。恐る恐る振り向くと、電信柱の陰に隠れるようにして立っている人影が目に入りました。
「え……桐生さん?」
よく見れば、それはひかるちゃんでした。
「あんた、同じクラスの……」
「一ノ瀬陽だよ」
「陽、何しているんだ? こんなところで」
「……桐生さんこそ」
「私は……」
「……もしかして、同じ、なんじゃない?」
「同じ? まさか……。大体、なんであんたが……」
「今日、あんなことがあったから、気になっちゃって」
「あんた、由梨と親しいのか?」
「ううん。特別には……」
「なら、なんでだよ。何があったって、放っておけばいいのに。普通は、そうするものだろう? ……何だよ」
突然くすくすと笑い出した陽を見て、ひかるちゃんは眉間に皺を寄せました。
「あ、ごめんね。だって、桐生さんったら、『普通』なんて言うんだもの」
「あ? それって、私が普通じゃないってことか?」
「『普通』が嫌いなのかと思っていたの」
陽がそう言って笑うと、ひかるちゃんはため息をつきつつも口の端を上げました。
「ねえ、桐生さ……」
「ひかる、でいい」
陽の言葉を遮るように言うと、ひかるちゃんがこちらに向き直ります。
「陽……一緒に行ってくれないか?」
「もちろん。その方が私も心強いよ」
陽とひかるちゃんはにこりと笑い合うと、すぐにきりっとした表情に変わりました。まるで、これから戦いにでも挑むかのようです。けれども、それもあながち間違いではないのかもしれません。少女たちにとって、クラスメイトの家に行くということはたいへんに緊張するものです。その家の大人が自分たちを受け入れていないと知っているならばなおのこと。
二人は意を決したように目配せをすると、眼前に立ちはだかる大きな門に向かい、その一歩を踏み出したのでした。
「あ、ちょっと待って。やっぱり、私が先に行く」
二歩目を踏みかけたところで上がった陽の声。それにすっかり戦意を挫かれてしまったひかるちゃんは、俄かに陽を睨みつけます。
「なんだよ、今、一緒に行こうって言ったじゃないか」
そんなひかるちゃんを前に少しばかり焦りながら、
「うん。でも、ひかるちゃんはお母さんに良く思われていないから……」
と申し訳なさそうに言うと、
「そりゃあ、まあ……」
ひかるちゃんもどこか納得したようでした。
「だから、私が最初に行って様子を見て来るね」
そうして、先に陽だけが由梨ちゃんの家に行くこととなったのです。
陽は、インターホンを鳴らし、門が開けられるのを一人待ちました。
間もなく、自動で門が開き、ややあって家の扉が開けられました。
『インターホンにカメラでもついていたのかな。子供だから通してくれるの……?』
そんな疑問を抱きつつ開かれた扉の方へと向かうと、中からは由梨ちゃんのお母さんが、不機嫌そうな顔をのぞかせています。
「こ……こんにちは」
「こんにちは、という時刻でもないでしょう。何かご用かしら」
「あの、私……由梨ちゃんと同じクラスの……」
「そう。それで?」
「一ノ瀬陽といいます」
「自己紹介は不要ですよ。ご用件は何かしら」
取り付く島もない物言いにたじたじとなっていると、ため息が降ってきました。
「……入りなさい」
「……はい」
そう答えたものの、足が竦んでしまって動きません。すると、
「早く入るか帰るかしてちょうだい。いつまでも扉を開けていたら虫が入るわ」
さらに由梨ちゃんのお母さんの機嫌を害してしまったようで、陽は竦む足を叱咤して玄関に上げてもらいました。
「それで、こんな時刻に何のご用かしら?」
お母さんにそう尋ねられた時、奥の扉が開きました。そうして顔を出したのは、すらっとしたスタイルの良い女性です。面影が由梨ちゃんに似ています。きっと、医大生だという由梨ちゃんのお姉さんなのでしょう。
「誰? その子」
「由梨のクラスメイトですって」
お姉さんの質問にお母さんが答えます。
「あら、そう。随分と非常識なのね」
陽はびっくりしました。こんなにもはっきりと、面と向かって否定的な言葉をぶつけられたことがなかったからです。
「こんな時間に連絡もなく押しかけてくるなんて、一体どんな教育を受けているのかしら。これだから、学もなく教養もない人間は嫌なのよ」
「やめなさい」
お姉さんの言葉を、お母さんは一喝します。けれども、お姉さんは悪びれた様子もなく、そのまま別の扉の向こうへと消えて行きました。
「ごめんなさいね。でも、もう七時半を回っているわ。まだ外は明るいけれど、今は夜よ。こんな時刻に誰かの家を尋ねるというのは、非常識だと私も思うわ」
「……由梨ちゃんのお母さん」
陽は顔を上げると、じっとお母さんの目を見つめました。
「私は、由梨ちゃんのお母さんに聞きたいことがあります」
「……何かしら?」
「何のために、学や教養を身につけるのですか?」
「言っている意味がわからないわ」
「私は、確かに、由梨ちゃんのお姉さんから比べたなら、学も教養も足りないと思います。けれど……」
「あの子の言動が気に障ったのなら謝るわ」
「そうじゃないんです。でも、何か……今、何かがすっきりしなくて……」
「……」
「たくさん勉強して、たくさん教養を得て、その先には、一体、何があるんですか?」
「たくさん勉強をすれば、良い学校に入れるわ。良い学校に入れれば、教養も身につくわ。そして、良い就職先にも出会える。そうすれば、たくさんお金をもらえるようになる。お金があれば、豊かに、不自由なく暮らせるようになるのよ」
「お金があれば、幸せ……? お金があれば、一生不自由なく暮らせるの?」
「……たいていはね。お金があれば、たいていのものは手に入るもの」
「なら、手に入らないものって、何ですか?」
由梨ちゃんのお母さんは、わずかに口元を歪めました。
「……あなたは、一体何が言いたいのかしら」
「由梨ちゃんは、お金を出しても手に入らないものを、得ようとしているんだと思います。いえ、もう手に入れました」
「……」
「由梨ちゃんは、お金じゃ手に入らないものの価値を知っているんです。それを知っている由梨ちゃんが、価値あるものを犠牲にして、これから先たくさんのお金を手に入れたとしても、それだけで幸せになれるとは思えません」
「あなたに、由梨の何がわかるというの!」
「ごめんなさい……っ。私は、由梨ちゃんのこと、由梨ちゃんのお母さん以上には知りません! ……でも、お母さんが知らない由梨ちゃんのことなら、少しだけ知っています」
「私の知らない、由梨……?」
「ひかるちゃんといる時、由梨ちゃんはとても幸せそうなんです。ひかるちゃんは、たぶん、由梨ちゃんが初めて友達と呼べた人だと思います」
「……」
「ひかるちゃんは、たぶん、私と同じ。教養がない人です。勉強も、私以上に得意じゃないと思う。でも、由梨ちゃんにとっては、かけがえのない大切な友達なのは確かです」
「ひかる……? ああ、今日の……あの子のことね。それでも、あの子と付き合うようになってから由梨の成績が落ちたのもまた確かなことよ」
「それは……」
「由梨はね、これ以上成績を落とすわけにはいかないの。一生友達を作るなと言っているわけではないわ。良い学校に受かってから、そこで相応の友達を見つければ良いのよ」
「……できないよ、そんなの……」
陽のつぶやきに、由梨ちゃんのお母さんは片眉を持ち上げました。
「お母さ……母が、言っていたんです。友達を作るのも勉強と同じぐらい……ううん、それ以上にたいへんなことだって。義務教育は、友達を作る練習をする場でもあるから、それを過ぎてから初めて友達を作るのは難しいって」
「……なるほど。そういう考え方もあるのね」
「由梨ちゃんのお母さん。私、また怒らせてしまうかもしれないけれど……」
「何かしら」
「由梨ちゃんのお姉さんには、友達がいましたか?」
すると、由梨ちゃんのお母さんは顔を伏せて黙ってしまいました。




